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'''明友会'''(めいゆうかい)は、[[1950年代]]に活動した[[大阪]]の[[愚連隊]]系[[暴力団]]。[[1953年]]頃、[[大阪府]][[大阪市]]の[[鶴橋駅]]高架橋下にある[[歓楽街]]や[[生野区]]猪飼野近辺の在日韓国朝鮮人の[[不良行為少年|不良]]や[[アウトロー]]が寄り集まって成立した[[愚連隊]]の連合組織・[[暴力団]]で[[1960年]]に解散した。
==
生野区周辺や大阪の[[ミナミ]]を中心に戦後の群雄割拠した小団体との[[抗争]]を通して勢力を拡大させ、[[1950年代]]後半には600名を超える構成員を擁したといわれる。
明友会という組織自体は現在の[[ヤクザ]]のような強固なものではなく、愚連隊の連合体というべき比較的もろい組織だった。
[[1960年]]に三代目[[山口組]]との抗争
===明友会事件の影響===▼
==最高幹部==▼
*会長・[[姜昌興|姜 昌興]]▼
▲==明友会事件==
ミナミにおける明友会勢力は消滅し、代わって[[田岡一雄]]の大阪の舎弟・[[藤村唯夫]]が率いる[[南道会]]勢力が躍進した。神戸の[[溝橋組]](組長・[[溝橋正夫]])など山口組傘下団体が大阪に進出。また明友会から[[小田秀臣]]が独立、山口組傘下に鞍替えした(後の山口組若頭補佐、[[小田秀組]]組長、集団指導体制化での序列は4位と目された)。
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なお[[山口組]]が見せた[[明友会事件]]での統制されていた[[指揮]]系統や、電光石火の機動力に、地元・[[大阪]]であぐらをかいていた、数ある在阪[[暴力団]]組織の危機感を煽ることとなり、のち[[南一家]]、[[中政連合]]、[[酒梅組]]、[[東組]]、[[砂子川組|砂子川]]、[[大野一家]]、[[直嶋義勇会]]、[[淡熊会]]、[[土井熊組]]、[[高村組]]、[[倭奈良組|倭奈良]]、[[松田組]]、[[諏訪一家]]など、在阪[[暴力団]]は近代的に系列化を進めることとなる。
▲==最高幹部==
▲*会長・[[姜昌興|姜 昌興]]
==参考文献==
*[[飯干晃一]]『柳川組の戦闘』[[角川書店]]<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0 P.147
*[[飯干晃一]]『柳川組の戦闘』[[角川書店]]<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0 P.156~P.162
==関連項目==
*[[明友会事件]]
[[Category:大阪府の暴力団|めいゆうかい]]
[[Category:暴力団抗争事件|めいゆうかい]]
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