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トホホ川 (会話 | 投稿記録)
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==史実上の高俅==
[[徽宗]]の治世下で[[殿帥府]]太尉を勤めた。『[[宋史]]』によれば、父の名は'''高敦復'''で、数人の兄弟がいて、4人の息子がいたという。『宋史』及び『揮塵後録』等の野史によると、『水滸伝』に描かれるように、生来放蕩無頼の気質があり、様々な有力者の間を食客として転々としていたが、[[神宗 (宋)|神宗]]の[[女婿]]の[[王シン (宋)|王詵]]の[[食客]]となっていた際、当時端王だった趙佶(徽宗)に使いした時、その[[蹴鞠]]の才を披露して気に入られ側に仕え、趙佶即位後、資格なくとも勤まる武官として宮中に昇り、以降とんとん拍子に出世して殿師府大尉まで上り詰めた。
 
禁軍の最高指揮官である[[童貫]]と結託して軍政を握り、軍費を着服し、兵士を私用の使いや自宅の改修工事などに使い、さらに他の高官や有力者の私用のためにも兵を出向させたため禁軍の弱体化を招いたとされる。ただ、『宋史』によると、[[1125年]]に[[金 (王朝)|金]]の[[呉乞買|太宗]]が[[開封]]を陥落し、徽宗と[[欽宗]]父子とその一門を捕らえて、厳寒地の東北にある五国城([[黒竜江省]]北部)に強制移住させられた。一方、高俅はその頃に病に倒れたとされ、翌年[[]]に自邸で逝去したといわれ、その死後既に処罰されていた[[蔡京]]、[[童貫]]ら同様、官職を全て剥奪され、また開封が陥落した際は一族の官職、及び家財も没収された。[[高宗 (宋)|高宗]]は高俅が不遇のうちに死んだのを哀れみ、宮中で追悼式を行おうとしたが、李若水が「高俅は国家を滅ぼした大悪人であり、追悼などとんでもないことだ」と反対したため、追悼行事は行われなかったという。(盛巽昌『水滸伝補証本』)
 
ただ『水滸伝』作中で、同じ4姦臣の1人として数えられる蔡京や童貫に比べ、功績、悪行双方の面で大きく劣り、当時奸臣の代表として論われた呼称「六賊」には入っておらず、個別の列伝はおろか『宋史』姦臣佞幸両伝にもその伝は立てられていない。現代中国の学者・盛巽昌は、『宋史』があまりにもずさんなので、列伝を立てることが出来なかったのだろうとしている。また、『水滸伝』に描かれるようなまったくの忘恩不義の徒というわけではなかったらしく、[[新法派]]の蔡京の権勢下、[[蘇軾]]の一族は[[旧法派]]であったために官職にも就けず世間から冷遇されていたが、高俅だけはかつて蘇軾の下で書記を務めていた恩義から、その一族への援助を生涯怠らなかったという。以上の記述から史実における高俅は、良くも悪くも遊侠の徒としての性格が強い人物であった事が伺える。