「アラビア半島」の版間の差分

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== 歴史 ==
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*[[紀元前2世紀]]ごろ [[ローマ帝国]]と[[アジア]]の季節風貿易で[[紅海]]沿岸の[[都市]]が栄える。
--><!--紀元前2世紀のローマは共和制。国号と年代、どちらが間違っているのだろう?
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*[[5世紀]]頃 商業発展し、[[マッカ]]とヤスリブ([[マディーナ]]の旧称)を中心に栄える。
*[[570年]]頃 マッカに[[イスラム教]]の開祖[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]誕生。
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*[[630年]] ムハンマドのマッカ入城。ムハンマド率いるイスラム軍がアラビア半島統一。
*[[632年]] ムハンマド死去。初代[[正統カリフ]]として[[アブー=バクル]]が選出される。首都はマッカ。
*[[661年]] ウマイヤ家のシリア総督[[ムアーウィヤ]]が[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|第4代正統カリフ・アリー]]から[[カリフ]]位を奪い、[[ウマイヤ朝]]成立。帝国の首都はマッカからウマイヤ家の本拠地[[ダマスカス]]に遷都。
*[[750年]] [[アッバース革命]]。[[ウマイヤ朝]]は滅亡。[[アッバース朝]]の成立。
*[[10世紀]]後半 マッカを含む半島西部の[[ヒジャーズ|ヒジャーズ地方]]は、[[ファーティマ朝]]の保護下となる。
*[[12世紀]]後半 [[アイユーブ朝]]建国。ヒジャーズ地方は[[アイユーブ朝]]の領土となる。
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*[[1818年]] エジプト総督[[ムハンマド・アリー]]がワッハーブ王国を滅ぼす。
*[[1824年]] 第二次サウード王国が建国。
*[[1891年]] 第二次サウード王国が滅びる。[[オマーン]]が[[イギリス帝国|イギリス]]の保護国になる。
*[[1902年]] [[サウード家]]が[[リヤド]]奪還。サウード王国復興。
*[[1915年]] [[イギリス帝国|イギリス]]は来るべき[[アラブ反乱]](アラブのトルコからの独立戦争)の支持を確約([[フサイン=マクマホン協定]])。
*[[1914年]] [[第一次世界大戦]]勃発。
*[[1916年]] [[アラブ反乱]]勃発。[[ヒジャーズ王国]]成立。
*[[1915年]] [[イギリス帝国|イギリス]]は大戦に勝利するために、敵である[[三国協商]]の一角を占めるオスマン帝国の弱体化を謀る。オスマン支配下にあったアラブ人独立([[アラブ反乱]])を支持することを確約した([[フサイン=マクマホン協定]])。
*[[1918年]] [[イエメン王国]]独立。
*[[1916年]] マッカのシャリーフであった[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]が、オスマン帝国からの独立とアラブ民族の統一を大義に掲げて、4人の息子たちとともに、[[アラブ反乱]]を起こす。その陰にはイギリスの[[軍属]][[トーマス・エドワード・ロレンス]]の隠密活動もあった。ヒジャーズ地方の独立が達成され、[[ヒジャーズ王国]]となる。一方で、イギリスは秘密裏に[[サイクス・ピコ協定]]を[[フランス植民地帝国|フランス]]、[[ロシア帝国]]との間で結び、旧オスマン領土の分割を約していた。
*[[1920年]] [[オスマン帝国]]は[[セーヴル条約]]により、ヒジャーズ王国の独立を承認。
*[[1917年]] [[ロシア革命]]のせいで、サイクス・ピコ条約がアラブ側の知るところとなる。12月31日、[[ジョン・フィルビー]]が[[リヤード]]から[[ターイフ]]をへて[[ジッダ]]に到達。ヨーロッパ人としては3人目のアラビア半島横断。
*[[1924年]] トルコ共和国で[[カリフ]]制度が廃止される。これに伴いと、[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|ヒジャーズ国王フサイン]]がカリフを自称。しかし支持を得られず孤立する。ヒジャーズ王は長男のアリー・イブン・フサインに王位を譲り隠遁する。
*[[1918年]] 第一次世界大戦終結。[[パリ講和会議]]で[[民族自決]]が唱えられた。オスマン帝国のアラビア半島最南端の領土から[[イエメン王国]]が独立。
*[[1925年]] サウード家の[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード|イブン=サウード]]がヒジャーズに侵攻。ヒジャーズ王国は建国後わずか9年で滅亡。
*[[1920年]] [[オスマン帝国]]は[[セーヴル条約]]により、ヒジャーズ王国の独立を承認。[[イラク]]、[[シリア]]、[[レバノン]]、[[パレスチナ]]の領土からも撤退。[[シリアの歴史#フランス占領期|シリア・アラブ王国]]が独立。しかし新王国は独立後わずか数か月後にフランス軍により潰された。その後はフランスの委任統治下に入った。
*[[1931年]] サウード家のイブン=サウードがヒジャーズ=ネジト王国の建国を宣言。
*[[1921年]] 旧オスマン領から、ヒジャーズ王の息子たちを王とする[[トランスヨルダン]]と[[イラク王国]]が成立。ただし、これら2王国は、イギリスの委任統治下に置かれた。半島中部ではサウード家がラシード家を滅ぼして勢力を拡大する。
*[[1932年]] ヒジャーズ=ネジト王国が[[サウジアラビア王国]]に改称される。
*[[1923年]] [[トルコ革命]]。オスマン帝国滅亡。[[トルコ共和国]]建国。
*[[1924年]] トルコ共和国で[[カリフ]]制度が廃止される。これに伴い[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|ヒジャーズ国王フサイン]]がカリフを自称。しかし支持を得られず孤立する。ヒジャーズ王は長男のアリー・イブン・フサインに王位を譲り隠遁する。
*[[1925年]] サウード家の[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード|イブン=サウード]]がヒジャーズに侵攻。ヒジャーズ王国は建国後わずか9年で滅亡。
*[[1931年]] サウード家のイブン=サウードがヒジャーズ=ネジト王国の建国を宣言。
*[[1932年]] サウード家のイブン=サウードがヒジャーズ=ネジト王国を[[サウジアラビア王国]]に改称する。同年、[[イラク王国]]がイギリスから独立。初代イラク国王は、[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|滅亡したヒジャーズ王国の初代王]]の三男であった[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]。
*[[1951年]] [[ガワール油田]]が生産開始。サウジアラビア王国に莫大な富をもたらす。
*[[1958年]] イラクの王政が倒れ、[[イラク|イラク共和国]]となる。
*[[1971年]] [[バーレーン]]、[[カタール]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[オマーン]]がイギリスから独立。
*[[1991年]] [[湾岸戦争]]勃発。