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Chokorin (会話 | 投稿記録)
歴史重視の観点から過去の経緯を冒頭に置いた。
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同法の酒類とは、アルコール分1%以上の飲料とされ、薄めてアルコール分1%以上の飲料とすることができるもの(酢やエタノール製剤用のアルコールは除かれる)、または、溶解してアルコール分1%以上の飲料とすることができる粉末状のものを含むもの、とされる。
 
==過去の経緯(酒造税から酒税へ==
== 酒類の分類 ==
 
[[日本]]において、酒類に関する課税は[[中世]]の頃から「[[壷銭]]」・「酒役([[酒屋役]])」・「麹役」として行われてきた。
酒税法上では酒類は、大分類として発泡性酒類、醸造酒類、蒸留酒類、混成酒類の4酒類に分けられ、さらに中分類として[[清酒]]、[[合成清酒]]、連続式蒸留[[焼酎]]、単式蒸留焼酎、[[みりん]]、[[ビール]]、[[果実酒]]、甘味果実酒、[[ウイスキー]]、[[ブランデー]]、原料用アルコール、[[発泡酒]]、その他の醸造酒、[[スピリッツ]]、[[リキュール]]、粉末酒及び雑酒の17種類に分類される。なお、法令上、「焼酎」は「しようちゆう」「しょうちゅう」のように平仮名表記され、「ウイスキー」の「イ」に小書き(ィ)は用いない。
 
[[江戸幕府]]では、[[酒造統制]]のために当初は[[酒株]]制度を導入していたが、[[1697年]](元禄10年)、幕府が税収のさらなる向上を企図して、造り酒屋に対して現行の酒価格の五割もの'''酒運上'''(さけうんじょう)と呼ばれる[[運上金]]を課すことにした。ここでいう運上金とは、今でいえば「造り酒屋の営業税」と「酒株」という「免許」の発行手数料などのことである。ところが、酒屋たちが生産を控えるようになったため、はじめ幕府が期待したような税収は得られなかった。生産量が減って酒の値段は高騰したが、それで下々の者が飲酒をしなくなるかというと、そういう結果も出なかった。このため運上金は[[1709年]](宝永6年)に廃止された。ただし、以後も[[冥加金]]として復活する事になる。また[[各藩]]でも独自に酒税を定める事があった。
 
[[明治維新]]後、新政府は[[1868年]]に旧来の免許石数の維持を命じるとともに冥加金として造酒100石ごとに金20両を課し、翌年には鑑札冥加として造酒100石ごとに金10両、毎年の冥加として同額(ただし濁酒は毎年7両に減額)を課した。
 
[[1871年]]酒株と酒造統制を廃止し、代わりに免許料(清酒10両・[[濁酒]]5両)、免許税(稼人1人あたり清酒5両・濁酒1両2分)、醸造税(製酒代金に対して清酒5分・濁酒3分)を徴収した。[[1875年]]には'''酒類税則'''を定めて免許料を廃して醸造税を販売代金の1割とした。[[1878年]]には再び醸造税を造石高1石に対して清酒1円・濁酒30銭・白酒及び味醂2円・焼酎1円50銭・銘酒3円と改めた。
 
[[1880年]]に新たに'''酒造税制'''を制定し、初めて「'''酒造税'''(しゅぞうぜい)」という呼称を用いた。従来の税制を酒造免許税と酒造造石税(造石高1石に対して醸造酒2円・蒸留酒3円・再製酒4円)の2本立てとした。[[1896年]]には'''酒造税法'''が成立し、旧来の酒税免許税を新税である[[営業税]]に譲ってこれを廃止して酒造造石税に一本化するとともに造石高1石に対して第1種(清酒・白酒・味醂)7円、第2種(濁酒)6円、第3種(焼酎・酒精)8円と定めて長く基本原則とした。
 
このため、1881年(明治14年)には[[植木枝盛]]を中心に酒税の減税嘆願の運動(酒業者の大阪[[酒屋会議]]への招集)がおきている<ref>板垣退助 監修『自由党史(中)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、154~184頁</ref>。
 
その後、[[1896年]]には'''酒造税法'''が成立し、旧来の酒税免許税を新税である[[営業税]]に譲ってこれを廃止して酒造造石税に一本化するとともに造石高1石に対して第1種(清酒・白酒・味醂)7円、第2種(濁酒)6円、第3種(焼酎・酒精)8円と定めて長く基本原則とした。
 
こうした度重なる制度改正と増税の背景には、酒類が多くの人にとって必需品である事、生産量が極めて多く明治初期の統計では日本で一番生産量の多い商工業製品であった事、当時日本製の酒類が日本国外で飲まれることは皆無に近く輸出量も極僅かであったために貿易摩擦の心配がなかった事などがあげられる。また、当時[[地主]]層出身議員が多かった[[帝国議会]]が自己の税負担に関わる[[地租]]の増徴には反対であったが、利害関係の乏しい酒造税の増徴には反対に回らなかった事も理由としてあげられる。
 
こうした事態に酒の醸造業者は強く反発して前述のごとく[[酒屋会議]]などを結成して抵抗したが、政府は濁酒を含む全ての自家用酒造を禁止([[どぶろく]]を参照のこと)して醸造業者の保護を約束する事で増税を受け入れさせた。事実、[[日露戦争]]が始まった[[1904年]]を皮切りに[[1905年]]、[[1908年]]、[[1918年]]、[[1920年]]、[[1925年]]と増税が続き、[[日中戦争]]が始まった[[1937年]]以後は毎年増税される事となった。また、酒造税は[[1899年]]に地租を抜いて国税収入の第1位を占めると、[[第一次世界大戦]]下の[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]の数年間を例外として[[1935年]]に[[所得税]]に抜かされるまで30年以上にわたって税収1位の地位を保持し続けたのである。なお、[[1902年]]には酒造税だけで全ての国税収入の実に42%を占めたこともあった。
 
[[1940年]]、これまで酒造税法の枠外に置かれて独自の課税体系に属していた[[ビール]]や[[工業用アルコール]]などを全ての酒類を統括した「'''酒税法'''」が施行される。[[1944年]]には課税基準が造石高から庫出高に変更された。戦後は[[1950年]]に国税収入の18.5%を占めたのをピークに増税傾向の継続にも関わらず他産業の復興と酒離れもあってその占める地位は低下しつつある。そんな状況下の[[1953年]]に'''[[酒税法|現行の酒税法]]'''が施行されている。
 
 
== 酒類の分類 (現行)==
 
現行の酒税法上では酒類は、大分類として発泡性酒類、醸造酒類、蒸留酒類、混成酒類の4酒類に分けられ、さらに中分類として[[清酒]]、[[合成清酒]]、連続式蒸留[[焼酎]]、単式蒸留焼酎、[[みりん]]、[[ビール]]、[[果実酒]]、甘味果実酒、[[ウイスキー]]、[[ブランデー]]、原料用アルコール、[[発泡酒]]、その他の醸造酒、[[スピリッツ]]、[[リキュール]]、粉末酒及び雑酒の17種類に分類される。なお、法令上、「焼酎」は「しようちゆう」「しょうちゅう」のように平仮名表記され、「ウイスキー」の「イ」に小書き(ィ)は用いない。
 
[[酒類免許]]は種類別、品目別になっているため、例えばウイスキーの免許で、ブランデーを造ることはできない。
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*平成8年度 1,961,868
 
==脚注==
==酒造税から酒税へ==
<references />
 
[[日本]]において、酒類に関する課税は[[中世]]の頃から「[[壷銭]]」・「酒役([[酒屋役]])」・「麹役」として行われてきた。
 
[[江戸幕府]]では、[[酒造統制]]のために当初は[[酒株]]制度を導入していたが、[[1697年]](元禄10年)、幕府が税収のさらなる向上を企図して、造り酒屋に対して現行の酒価格の五割もの'''酒運上'''(さけうんじょう)と呼ばれる[[運上金]]を課すことにした。ここでいう運上金とは、今でいえば「造り酒屋の営業税」と「酒株」という「免許」の発行手数料などのことである。ところが、酒屋たちが生産を控えるようになったため、はじめ幕府が期待したような税収は得られなかった。生産量が減って酒の値段は高騰したが、それで下々の者が飲酒をしなくなるかというと、そういう結果も出なかった。このため運上金は[[1709年]](宝永6年)に廃止された。ただし、以後も[[冥加金]]として復活する事になる。また[[各藩]]でも独自に酒税を定める事があった。
 
[[明治維新]]後、新政府は[[1868年]]に旧来の免許石数の維持を命じるとともに冥加金として造酒100石ごとに金20両を課し、翌年には鑑札冥加として造酒100石ごとに金10両、毎年の冥加として同額(ただし濁酒は毎年7両に減額)を課した。
 
[[1871年]]酒株と酒造統制を廃止し、代わりに免許料(清酒10両・[[濁酒]]5両)、免許税(稼人1人あたり清酒5両・濁酒1両2分)、醸造税(製酒代金に対して清酒5分・濁酒3分)を徴収した。[[1875年]]には'''酒類税則'''を定めて免許料を廃して醸造税を販売代金の1割とした。[[1878年]]には再び醸造税を造石高1石に対して清酒1円・濁酒30銭・白酒及び味醂2円・焼酎1円50銭・銘酒3円と改めた。
 
[[1880年]]に新たに'''酒造税制'''を制定し、初めて「'''酒造税'''(しゅぞうぜい)」という呼称を用いた。従来の税制を酒造免許税と酒造造石税(造石高1石に対して醸造酒2円・蒸留酒3円・再製酒4円)の2本立てとした。[[1896年]]には'''酒造税法'''が成立し、旧来の酒税免許税を新税である[[営業税]]に譲ってこれを廃止して酒造造石税に一本化するとともに造石高1石に対して第1種(清酒・白酒・味醂)7円、第2種(濁酒)6円、第3種(焼酎・酒精)8円と定めて長く基本原則とした。
 
こうした度重なる制度改正と増税の背景には、酒類が多くの人にとって必需品である事、生産量が極めて多く明治初期の統計では日本で一番生産量の多い商工業製品であった事、当時日本製の酒類が日本国外で飲まれることは皆無に近く輸出量も極僅かであったために貿易摩擦の心配がなかった事などがあげられる。また、当時[[地主]]層出身議員が多かった[[帝国議会]]が自己の税負担に関わる[[地租]]の増徴には反対であったが、利害関係の乏しい酒造税の増徴には反対に回らなかった事も理由としてあげられる。
 
こうした事態に酒の醸造業者は強く反発して[[酒屋会議]]などを結成して抵抗したが、政府は濁酒を含む全ての自家用酒造を禁止([[どぶろく]]を参照のこと)して醸造業者の保護を約束する事で増税を受け入れさせた。事実、[[日露戦争]]が始まった[[1904年]]を皮切りに[[1905年]]、[[1908年]]、[[1918年]]、[[1920年]]、[[1925年]]と増税が続き、[[日中戦争]]が始まった[[1937年]]以後は毎年増税される事となった。また、酒造税は[[1899年]]に地租を抜いて国税収入の第1位を占めると、[[第一次世界大戦]]下の[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]の数年間を例外として[[1935年]]に[[所得税]]に抜かされるまで30年以上にわたって税収1位の地位を保持し続けたのである。なお、[[1902年]]には酒造税だけで全ての国税収入の実に42%を占めたこともあった。
 
[[1940年]]、これまで酒造税法の枠外に置かれて独自の課税体系に属していた[[ビール]]や[[工業用アルコール]]などを全ての酒類を統括した「'''酒税法'''」が施行される。[[1944年]]には課税基準が造石高から庫出高に変更された。戦後は[[1950年]]に国税収入の18.5%を占めたのをピークに増税傾向の継続にも関わらず他産業の復興と酒離れもあってその占める地位は低下しつつある。そんな状況下の[[1953年]]に'''[[酒税法|現行の酒税法]]'''が施行されている。
 
==関連項目==