「マジャパヒト王国」の版間の差分

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[[1316年]]、ウィジャヤの息子の{{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}}が、[[:id:Kabupaten Lumajang|Lumajang]]で現職の[[:id:Patih|Patih]]・[[:id:Nambi|Nambi]]による反乱を鎮圧し、東部と西部は再び統一されたと[[:en:Nagarakretagama|Nagarakretagama]]の「{{仮リンク|王統史 (ジャワ)|en|Pararaton|label=王統史}}」に書かれている。
 
[[1328年]]に{{仮リンク|ジャヤナガラ|en|Jayanegara}}が死去すると後継男子がいなかったので、故クルタナガラ王の末娘ラージャパトニに後を継がせたが、ラージャパトニは熱心な仏教徒で出家していたので、娘の{{仮リンク|トリブワナー・ウィジャヤトゥンガデウィ|en|Tribhuwana Wijayatunggadewi|label=トリブワナー}}を摂政として政務を取らせた。(インドネシアの歴史教科書『インドネシア国史』(Sejarah Nasional Indonesia)では、トリブワナが王位に登ったとする。)この頃、親衛隊長から宰相に抜擢された[[ガジャ・マダ]]がマジャパヒト王国を最盛期に導くことになる。1350年ラージャパトニが死去するとトリブワナーの息子{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}がラージャサナガラとして即位した
 
== 最盛期 ==
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最盛期の支配領域はマレー半島の[[パタニ]]やトゥマシク([[シンガポール]])、[[ボルネオ島|カリマンタン島]]に及び、東西交通の要衝である[[マラッカ海峡]]と[[スンダ海峡]]を制圧した。また[[タイ王国|タイ]]の[[アユタヤ王朝]]や[[カンボジア]]、[[ベトナム]]とも友好関係を持った。
 
[[1350年]]、ラージャパトニが死去するとトリブワナーの息子{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}がラージャサナガラとして即位した。
 
[[1357年]]、{{仮リンク|ブバットの戦い|en|Battle of Bubat}}では{{仮リンク|スンダ王国|en|Sunda Kingdom}}を破ったが、両国関係は険悪になった。
 
== 衰亡 ==
「{{仮リンク|王統史 (ジャワ)|en|Pararaton|label=王統史}}」によると、[[1376年]]に新しい王国({{lang|id|gunung baru}})が誕生した。[[明]]の[[id:Berita Cina|Chinese chronicles]]によると、[[1377年]]にジャワ島の二つの王国から朝貢が行なわれている。西の王国が{{lang|id|Wu-lao-po-wu}}、東の王国が{{lang|id|Wu-lao-wang-chieh}}と記録されている。西の王国は、{{lang|id|Bhra Prabu}}({{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}})が治めていた。一方、東の王国は、[[:id:Dyah Wiyat|Rajadewi]]の夫の{{lang|id|Bhre Wengker}}({{lang|id|Wijayarajasa}})が治めていた。[[1389年]]に{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}が死んで、{{仮リンク|ウィクラマワルダナ|en|Wikramawardhana}}が跡を継いだ。[[1398年]]に{{lang|id|Wijayarajasa}}が死ぬと、{{lang|id|Bhre Wirabhumi}}が跡を継いだ
 
[[1377年]]、[[ガジャ・マダ]]は既に死んでいたが、マジャパヒト王国は[[パレンバン]]に兵を送り、[[シュリーヴィジャヤ王国]]を滅亡させた。この時、最後の王子{{仮リンク|パラメスワラ (マラッカ王)|en|Parameswara (sultan)|label=パラメスワラ}}が脱出してマレー半島に逃れ、後に[[マラッカ王国]]を建国する。
 
[[1389年]]に{{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}}が死んで、{{仮リンク|ウィクラマワルダナ|en|Wikramawardhana}}が跡を継いだ。[[1398年]]に{{lang|id|Wijayarajasa}}が死ぬと、{{lang|id|Bhre Wirabhumi}}が跡を継いだ。
 
[[1404年]]から[[1406年]]にかけて、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦になった({{仮リンク|パルグルグ戦争|id|Perang Paregreg}})。[[中国]]の[[明]]王朝は15世紀前半[[鄭和]]艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航し、内戦に巻込まれた。鄭和艦隊の保護下に[[マラッカ王国]]が成立すると、[[南海貿易]]の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。