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== 生涯 ==
寄組藩士・[[高洲元忠]]の次男として生まれる。幼名丑之介、徳蔵、熊之助とも称し、のち、信濃、朝相と改め、毛利慶親(よしちか 後敬親と改める)公より一字賜り、親相と改めた。6歳の頃、同じく寄組藩士5600石の[[国司迪徳]]の養嗣子となり、[[1847年]]に家督を継いで大組頭となった。家柄も然ることながら、親相は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、[[1863年]]には[[長井雅楽]]の切腹検視役正使を務めている。
 
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航して以来、我が国は、尊王攘夷論が高まり、国内騒然、1863年5月10日、親相は[[久坂玄瑞]]らと共にアメリカ船ペングローブ号を砲撃し、下関海峡を封鎖、朝廷からも褒勅の沙汰を賜わった。この功績により、親相は下関防備総奉行に任じられる。しかし[[八月十八日の政変]]で長州藩が京都から追放されると、親相は家老に昇格した上で、同じく家老の[[益田兼施]]や[[福原元僴]]、さらに久坂らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、[[禁門の変]]を引き起こした。しかし[[薩摩藩]]・[[会津藩]]連合軍の前に大敗し、かくして、戦乱を起した敗軍の責を負わざるを得なくなった。親相は誰よりも責任を感じ、死をおもうていた。「はかなくも風の前の燈火(ともしび)の、消えゆることのみ待つ我が身かな」との京都の天龍寺において詠んでいる一首にそのことが偲ばれる。最善の引責の方法を藩主の命によって決したとの一念で、玉砕をさけあえて帰藩。時は1864年(元治元年)8月5日である。