「高松三太」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ぬるぽん (会話 | 投稿記録)
+cat using AWB
ぬるぽん (会話 | 投稿記録)
+cat〈日本中央競馬会の騎手〉 using AWB
2行目:
 
== 経歴 ==
[[1933年]]8月に、[[札幌競馬場]]所属の[[稗田虎伊]]調教師へ入門し、[[1937年]]に騎手免許を取得。同年[[7月3日]]の第1回札幌競馬初日第1競走で初騎乗したが最下位に敗れた。しかし初勝利には少し時間が掛かり、[[1940年]]の第1回東京競馬初日第4競走でようやく1勝を挙げた。
 
戦後、[[柏谷富衛]]、[[武輔彦]]、[[久保田金造]]の各厩舎を経て[[川上武一]]厩舎に所属し、[[1959年]]には通算300勝を記録したが、重賞勝ちはわずかに[[中山大障害]]の1勝のみと縁がかった。しかし、[[1960年]]の[[優駿牝馬]]で[[スターロッチ]]に騎乗して勝利を挙げると、同馬で[[有馬記念]]を勝ち、翌年の有馬記念を[[ホマレボシ]]で連覇、更に翌年([[1962年]])には[[菊花賞]]を人気薄の[[ヒロキミ]]で勝利するなど、打って変わって立て続けに重賞勝利を重ねた。
 
[[1965年]]3月をもって騎手を引退し、[[調教師]]となって[[中山競馬場]]・白井分場に厩舎を開業。[[1969年]]には、ミオソチスの馬主であった先代から付き合いのある[[伊達秀和]]の持ち馬[[アローエクスプレス]]を擁して[[京王杯2歳ステークス|京成杯3歳ステークス]]や[[朝日杯3歳ステークス]]を勝利し、春のクラシック戦線では[[タニノムーティエ]]と覇を争った。
 
[[1973年]]には、241戦47勝で関東調教師リーディングに輝き、その後も常に勝利数10位以内を外すことかった。また数々の重賞を制覇し、そのほとんどが愛弟子の[[柴田政人]]を鞍上にしての勝利であった。[[1978年]]には[[ファンタスト]]で[[皐月賞]]を勝利。また長男の[[高松邦男|邦男]]が調教師免許を取得して順風満帆であったが、翌年[[1月6日]]に[[肝硬変]]のために急逝した。59歳没。
 
厩舎は、そのまま邦男が受け継いだ。
50行目:
{{DEFAULTSORT:たかまつ さんた}}
[[Category:日本の騎手]]
[[Category:日本中央競馬会の騎手]]
[[Category:日本中央競馬会の調教師]]
[[Category:青森県出身の人物]]