「日本の歴史」の版間の差分

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=== 古代 ===
 ヤマトに先立ち、出雲、吉備などが弥生時代後期にのちの古墳時代につながるような巨大墳墓を建設したことから、それぞれの勢力の関与によりヤマト王権が確立したと考えられている。神武東征や邪馬台国の逸話から九州の勢力も加わり大和王権が確立した見方が優勢である。 
[[ヤマト王権]]が統一国家を形成しようとしていた[[6世紀]]には、倭王家の系譜を記す『[[帝紀]]』・倭国の神話を記す『[[旧辞]]』が、[[7世紀]]前半には[[聖徳太子]]らによって『[[天皇記]]』が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した[[8世紀]]前半には、<!--『[[古事記]]』が執筆されたが、これは暗誦によって伝えられた古い伝承を文字化したものであり、[[叙事詩]]の要素を含んでいる。続いて、-->日本最初の[[正史]]である『[[日本書紀]]』が完成した。『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、[[天皇]]支配の正統性を強く訴え、[[皇位継承]]の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる[[六国史]]。『[[続日本紀]]』『[[日本後紀]]』『[[続日本後紀]]』『[[日本文徳天皇実録]]』『[[日本三代実録]]』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。
 
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他方で戦後は歴史の大衆化が進み、[[海音寺潮五郎]]や[[司馬遼太郎]]など歴史小説の流行、または[[邪馬台国]]論争の隆盛のように歴史ブームというべき現象も起きており、学術的に認められていない俗説も一定の広がりを見せている。さらに、戦後大きく後退していた日本の歴史の独自性を強調する立場が、平成初年頃から[[自由主義史観]]と称してその主張を展開している。これらはいずれも歴史学と呼びうるレベルにはないが、一般の歴史に対する関心の反映として認識することができる。
 
 
 
== 歴史 ==