「ウクライナとロシアの関係」の版間の差分

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[[ファイル:Kiev raduga 2001 07 09.jpg|thumb|200px|1654年に完結されたウクライナ・ロシアの同盟を記念する「人民友好アーチ」(1982年、キエフ)。ソ連時代には「虹」と呼ばれていたが、独立後に市民によって「くびき」と改名された。]]
[[1648年]]に民族的・宗教的弾圧のために[[ウクライナ・コサック]]は、ポーランドからの[[フメリニツキーの乱|独立戦争]]を起こし、ポーランドと戦うために[[1654年]]に[[ペスラウ条約会議 (1654年)|ロシアと同盟]]を結んだ。ロシアは戦争に介入したが、[[1667年]]にポーランドと単独講和し、[[アンドルソヴォ条約]]によりポーランドとの[[永遠平和条約|ウクライナの分割を行った]]。[[コサック国家]]は分裂し、その東部はロシア帝国内における自治国として[[1787年]]までに存続した。
 
[[18世紀]]末にロシアは[[シーチ]]の廃止、[[ポーランド分割]]と[[クリミア汗国]]の併合を行ったことにより、西部を除いてウクライナの全領域を支配下に置いた。ウクライナの[[自治]]制が廃止されたものの、[[ウクライナ人]]の多くはロシア帝国の運営への参加が許された。ロシアはウクライナで[[ロシア化]]という[[同化政策]]を進め、ウクライナ人のコサックと農民を[[コーカサス]]、[[シベリア]]、[[中央アジア]]と[[極東]]の植民地化に利用した。