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[[画像:Kumano-Kaido.jpg|right|thumb|280px|熊野街道を紹介した銅版([[大阪市]]・[[北浜]]で)]]
'''熊野街道'''(くまのかいどう)は、[[京都|京]]から[[大阪|大坂]]を経て[[熊野三山]]([[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]])への参詣に利用された街道の総称。[[紀伊路]]とも呼ばれた。
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'''熊野街道'''(くまのかいどう)は、[[京都|京]]から[[大阪|大坂]]を経て[[熊野三山]](熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ'''小栗街道'''ともいう。その一部当初[[、渡辺津から熊野古道]]までが一体称さして扱わたが近世以後は紀伊田辺を境に[[紀伊山地の霊場と参詣道路]]・[[中辺路]]して区分されるようになった。後者の中辺路は、[[ユネスコ]]の[[世界遺産]](|世界文化遺産)に]]「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の一部として登録されている
 
== 概要 ==
街道は、[[摂津国|摂津]][[大阪|大坂]]の[[渡辺津]](窪津ともいう。[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[天満橋]]付近)を起点に[[四天王寺]]([[大阪市]][[天王寺区]])、[[住吉大社]]([[大阪市]][[住吉区]])、[[堺市|堺]]、[[和歌山]]などを通り、紀州[[田辺市|田辺]]を経て、[[中辺路]]または[[大辺路]]によって熊野三山へと向かう道筋だった。京からは渡辺津までは[[淀川]]を舟で下った。
 
和歌山以南の主要な道筋は、古代の官道・南海道がその前身であると考えられている。また、瓦屋村([[泉佐野市]])~和歌山間は、大阪湾沿岸を行く[[紀州街道]]と道筋を同じくする。
 
街道沿いには、熊野権現を祭祀した[[九十九王子]]が設けられ、参詣者はここで遥拝参詣道中の無事を祈念しながら熊野三山への旅を続けた。
 
==熊野参詣==
[[平安時代]]中期ごろから上皇貴族の熊野三山が[[阿弥陀信仰]]高まり聖地ともして信仰を集めるよう熊野参詣が盛んとると、法王、皇・上皇などの皇族、女院らの参詣(熊野御幸)や貴族の参詣が相次ぐようになった。

その嚆矢は[[907年]]の宇多上皇とされ、[[鎌倉時代]]まで盛んに参詣が行われた。[[1081年]]には[[藤原為房]](『為房卿記』)、[[1201年]]には[[後鳥羽上皇]][[藤原定家]]著『後鳥羽院熊野御幸記』)、1254年には[[藤原経俊]](『[[経俊卿記]]』)が参詣したことが文献に記されているが、白河上皇、後鳥羽上皇などのように何度も参詣するもあった。

[[室町時代]]以降は、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、[[アリ|蟻]]の行列する様に例えて「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったという。江戸時代には伊勢詣と並び庶民が数多く詣でたという。熊野参詣にちなんだ信仰の御利益を説く、小栗判官を題材とした説教本『をぐり』が出版されたり浄瑠璃として演じられたりしたのもこの頃であった。
 
明治以降は熊野への参拝は少なくなり、街道は鉄路の発達や近代的道路の整備などによりその道筋や機能を失っていく。しかし、熊野に近い山間部には、今なお当時の姿を残す熊野古道があり、貴重な歴史遺産及び地元の観光資源として重要な役割を果たしている。
室町時代以降は、熊野御幸の御師をつとめた[[本山派]][[修験道]]が参詣経営から後退したため、畿内からの熊野への参詣道が複数成立するようになり、渡辺津から紀伊田辺までを[[紀伊路]]、紀伊田辺から熊野本宮までを中辺路と区分するようになった。これにともない、熊野街道の称は熊野へ通ずる街道を全体として総称する、やや曖昧な用語になった(注1)。
*(注1)同じく[[熊野古道]]のひとつ[[小辺路]]も、熊野(街)道と称されることがあるが、歴史的由来からすると浅いものである。
 
明治以降は熊野への参拝は少なくなり、街道は鉄路の発達や近代的道路の整備などによりその道筋や機能を失っていく。しかし、熊野に近い山間部には、今なお当時の姿を残す熊野古道があり、貴重な歴史遺産および地元の観光資源として重要な役割を果たしている。
 
==現代==
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* [[熊野三山]]
* [[熊野古道]]
:[[紀伊路]]
:[[中辺路]]
* [[九十九王子]]
* [[国道26号]]