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水戸藩主は御三家の中でも唯一[[江戸]]常勤を定められ、万が一の変事に備えて[[征夷大将軍|将軍]]目代の役目を受け持っていた。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられたうえ、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、[[内高]]が[[表高]]を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は、表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
 
頼房は事情により三男[[徳川光圀|光圀]]に水戸藩を譲ったため、長男[[松平頼重]]は[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]12万石を与えられた。光圀は学問を好み、[[大日本史]]の編纂を行い、水戸藩に[[尊王論|尊王]]の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた[[水戸学]]は[[幕末]]の[[尊皇攘夷|尊皇攘夷運動]]に強い影響を与えた。
 
三代藩主[[徳川綱條|綱條]]は宝永2年に浪人の[[松波良利|松波勘十郎]]を登用して財政改革を実施したが、宝永6年(1709年)の[[百姓一揆]]で3,000人もの百姓が江戸へ出て様々な集団的示威行動を取ったため、やむなく年貢増徴の撤回や松波の罷免を行い改革は挫折した<ref>深井雅海『綱吉と吉宗』2012年、吉川弘文館</ref>。宝永の改革に失敗し、四代藩主[[徳川宗堯|宗堯]]が短い期間の統治で没し、五代藩主[[徳川宗翰|宗翰]]が幼少で水戸藩を継承したおりには、八代将軍[[徳川吉宗|吉宗]]により[[付家老]][[中山信昌]]ほかの水戸家家臣が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。更に八代将軍[[徳川吉宗]]以降に[[御三家]]の幕府による統制が強化される中、[[寛延]]2年には、支藩藩主の[[松平頼寛]]([[陸奥国|陸奥]][[守山藩]])と[[松平頼済]](常陸[[常陸府中藩|府中藩]])が[[老中]]の[[堀田正亮]]の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられた。このため五代藩主[[徳川宗翰|宗翰]]は宝暦改革と呼ばれる藩政改革を実施し、[[大田資胤]]に命じて財政再建を進めたが宝暦6年に資胤が致仕すると頓挫した。更に安永7年には[[江戸幕府]]が再び水戸藩の家老に直接細かい指示を与えて財政再建を命じた。六代藩主[[徳川治保|治保]]は幕命に従って倹約に努め藩主就任以来24年ぶりにお国入りを果たして寛政改革に乗り出したが、天明の大飢饉によって財政は更に悪化した。
 
尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより御三卿や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では支藩からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死亡した八代藩主[[徳川斉脩|斉脩]]の後継問題では[[清水家]]から[[徳川斉彊]]を擁立する派閥と[[藤田幽谷]]の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、七代藩主の三男である[[徳川斉昭]]が九代藩主についた。
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九代藩主[[徳川斉昭|斉昭]]は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする[[付家老]]の勢力を削ぐため一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても一年ごとの交代制に改めた。教育改革についても[[弘道館]]を建設して整備を行い、[[水戸学]]が藩論に強い影響を与えることになった。しかし強い尊王攘夷傾向のため[[江戸幕府|幕府]]に疎まれ隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で、新規召し抱えをおこなったため、藩財政は窮乏を極めた。なお15代将軍[[徳川慶喜]]は斉昭の子であるが、[[御三卿]]の一つである[[一橋家]]を継いでから将軍になったものである。
 
斉昭の隠居後には改革派の[[藤田東湖]]らも免職・蟄居となった。十代藩主となった[[徳川慶篤|慶篤]]は三連枝後見([[高松藩]]主・[[松平頼胤]]、[[守山藩]]主・[[松平頼誠]]、[[府中藩]]主・[[松平頼縄]])のもとで藩政を行った。
 
水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派([[諸生党]])と改革派([[天狗党]])の抗争から統制を失い、藩士による[[桜田門外の変]]、[[天狗党の乱]]、[[弘道館戦争]]を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができなかった。