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→‎丹頂時代の終焉: 一部記述を追加。またリンク切れに伴い、アメリカで丹頂ポマードが流通されていたという件に関して記述を削除。
→‎略歴・概要: 記載を大幅に推敲。
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[[1933年]]に発売され、現在まで販売され続ける商品としてその名を知られる。「チック」は[[コスメチック]] (''cosmetic'')を略してつけられた名称である<ref>http://www.showanavi.jp/madaaru/read/03/03.php</ref>。
 
== ・概要 ==
=== 丹頂の時代前史 ===
チックは日本が[[明治時代|明治]]期に入り、国内で流通していたびん付け油に変わるものとして、[[1900年代]]初頭から、[[フランス]]から輸入され始めた。国内では仏・ピノー社から発売されていたチックが、当時最も売れていたため、大阪で輸入雑貨品の販売を専業としていた大崎組商会を経て、同社倒産後はその後継として設立された、金鶴香水の初代社長として抜擢された[[西村新八郎]]も”海外から入ってくる製品に外貨を渡すのではなく、自らで製品を開発せねばならない”と危惧していた一人であった<ref> [[雄山閣|竹内書店新社編集部]]『超ロングセラー大図鑑』参照。</ref>。
「丹頂チック」は、現在のマンダムの前身にあたる'''金鶴香水株式会社'''時代([[1927年]] - [[1959年]])、[[1933年]](昭和8年)4月に誕生した<ref name="社史">[[マンダム]]公式サイト内の「[http://www.mandom.co.jp/company/corp/history.html 社史]」の記述を参照。</ref>。手を汚さず、持ったままで塗って髪形を整えられるとして、当時の[[モボ・モガ]]たちに愛用され、戦前戦後を通して、同社最初の大ヒット商品となった。
 
こうした中で「丹頂チック」は、現在のマンダムの前身にあたる'''金鶴香水株式会社'''時代([[1927年]] - [[1959年]])、[[1933年]](昭和8年)4)[[41日]]誕生した発売される<ref name="社史">[[マンダム]]公式サイト内の「[http://www.mandom.co.jp/company/corp/history.html 社史]」の記述を参照。</ref>。手を汚さず、持ったままで塗って髪形を整えられるに加え、折りも当時国内情勢不安定下の中また国産品愛用の動きも寄与したこと、さらには当時の日刊紙に「'''國産化粧品の最高基準品![[パリ|パリー]]製に優る丹頂チツク'''」というキャッチフレーズを擁した広告を幾度も掲載したことで、評判を呼ぶと共に当時の[[モボ・モガ]]たちに愛用され、戦前戦後を通して、同社最初の大ヒット商品となり、同社を支える柱となった。
丹頂シリーズでは、[[1927年]](昭和2年)に発売された「丹頂香油」や「丹頂ポマード」、[[1932年]](昭和7年)発売の「丹頂ほほ紅」、[[1934年]](昭和9年)発売の「丹頂クリーム」、[[1935年]](昭和10年)発売の「丹頂ヘアーローション」、[[1936年]](昭和11年)発売の「丹頂ブリランチン」<ref>[http://www.jncm.co.jp/cosmetics/history/1926_1945.html 化粧品・日用品・流通 1926-1945年]の記述を参照。</ref>、[[1947年]](昭和22年)発売の「丹頂酵母クリーム」等、[[1952年]](昭和27年)発売の「丹頂コールドクリーム」<ref>[http://www.jncm.co.jp/cosmetics/history/1946_1956.html 化粧品・日用品・流通 1946-1956年]の記述を参照。</ref>、[[1957年]](昭和32年)発売の「丹頂ホルモニック」等が発売された<ref>[http://www.jncm.co.jp/cosmetics/history/1957_1964.html 化粧品・日用品・流通 1957-1964年]の記述を参照。</ref>。戦後[[1959年]](昭和34年)4月には「丹頂」ブランドの知名度から、金鶴香水は'''丹頂株式会社'''と社名を変更するにいたる<ref name="社史" />。
 
=== 隆盛を極める丹頂 ===
戦後の広告には当時の映画スター[[三船敏郎]]などが起用<ref name="社史" />された。当時は、[[柳屋本店 (化学)|柳屋本店]]の「柳屋ポマード」([[1920年]]発売<ref>「[[柳屋本店 (化学)|柳屋本店]]」公式サイト内の「[http://www.yanagiya-cosme.co.jp/history.htm 会社沿革]」の記述を参照。</ref>)とこの「丹頂チック」が[[整髪料]]のシェアを二分していた<ref>「[[柳屋本店 (化学)]]」の項の記述を参照。</ref>。
このヒットを受けて、金鶴香水は「丹頂シリーズで、[[1927年]](昭和2年)に発売された「丹頂香油」や「丹頂ポマード」、[[1932年]](昭和7年)発売の「丹頂ほほ紅」、[[1934年]](昭和9年)発売の「丹頂クリーム」、[[1935年]](昭和10年)発売の「丹頂ヘアーローション」、[[1936年]](昭和11年)発売の「丹頂ブリランチン」<ref>[http://www.jncm.co.jp/cosmetics/history/1926_1945.html 化粧品・日用品・流通 1926-1945年]の記述を参照。</ref>、[[1947年]](昭和22年)発売の「丹頂酵母クリーム」等、[[1952年]](昭和27年)発売の「丹頂コールドクリーム」<ref>[http://www.jncm.co.jp/cosmetics/history/1946_1956.html 化粧品・日用品・流通 1946-1956年]の記述を参照。</ref>、[[1957年]](昭和32年)発売の「丹頂ホルモニック」等が発売された<ref>[http://www.jncm.co.jp/cosmetics/history/1957_1964.html 化粧品・日用品・流通 1957-1964年]の記述を参照。</ref>。戦後[[1959年]](昭和34年)4月には「丹頂」ブランドの知名度から、金鶴香水は'''丹頂株式会社'''と社名を変更するにいたる<ref name="社史" />。
 
戦後の広告には当時の映画スターとして知られた[[三船敏郎]]などが起用<ref name="社史" />された。当時は、[[柳屋本店 (化学)|柳屋本店]]の「柳屋ポマード」([[1920年]]発売<ref>「[[柳屋本店 (化学)|柳屋本店]]」公式サイト内の「[http://www.yanagiya-cosme.co.jp/history.htm 会社沿革]」の記述を参照。</ref>)とこの「丹頂チック」が[[整髪料]]のシェアを二分していた<ref>「[[柳屋本店 (化学)]]」の項の記述を参照。</ref>。
しかし丹頂チックは、その後[[1963年]](昭和38年)に[[資生堂]]から発売された、斬新さを売りにした男性用化粧品、「[[MG5]]」シリーズにたちまちシェアを奪われ、丹頂は一時は倒産寸前にまで追い込まれることになる。
 
しかし丹頂チックは、その後[[1963年]](昭和38年)に[[資生堂]]から発売され、斬新さを売り前面押し出した男性用化粧品「[[MG5]]」シリーズの登場より、その牙城に亀裂を生じ始める。[[1969年]](昭和44年)には「MG5」がフルラインナップ化にしたことにより、たちまちのうちにシェアを奪われることとなった。これにより、丹頂は一時倒産寸前にまで追い込まれることになる。
 
=== 丹頂時代の終焉 ===
追い詰められた丹頂は、当時の資生堂の「MG5」のコンセプトが、”都会的なイメージに満ちたスタイリッシュな男子”を標榜していた戦略に対し、”男らしく、武骨な男”をイメージした戦略であるならば、都市部のみならず、地方でも勝負でき得る、と踏むと共に、同コンセプトで[[マーケティング]]を重ね、[[1970年]](昭和45年)7月に[[チャールズ・ブロンソン]]をイメージキャラクターに起用した「マンダム」シリーズ(9品種10品目)を発売<ref name="社史" />したれが起死回生の一打により、再度「MG5」に奪われたシェアを再度奪回する。その後は資生堂とマンダムが拮抗する中で、新たに[[カネボウ化粧品]]が「エロイカ」シリーズを送りこんで来るなど、三つ巴の戦いを繰り広げてゆくことになる成功した
 
その結果後は資生堂とマンダムが拮抗する中で、新たに[[カネボウ化粧品]]が「エロイカ」シリーズを送りこんで来るなど、三つ巴の戦いを繰り広げてゆくことになると共に、これまでに発売された丹頂シリーズのシェアは次第に縮小してゆくことになる。[[1971年]](昭和46年)4月、丹頂は社名をマンダムに変更<ref name="社史" />、丹頂の時代は終焉を迎えることになる。
 
マンダムの土台を築いた商品として、今も同社が[[1969年]](昭和44年)に現地企業と合弁して設立した[[インドネシア]]の現地法人が持つ工場で生産されている。