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岩見浩造 (会話 | 投稿記録)
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'''福島の原子力発電所と地域社会'''(ふくしまのげんしりょくはつでんしょとちいきしゃかい)では[[福島県]]にて[[浜通り]]の原子力発電所群([[東京電力]][[福島第一原子力発電所]][[福島第二原子力発電所]]が建設運転に入る過程で、地域社会に与えた経済、社会的影響について説明する。なお、主として[[福島第一原子力発電所事故|福島第一事故]]前([[2011年]]以前の状況を対象とする。事故後、発電所の半径20㎞以内は立ち入り禁止となり、域内のあらゆる経済活動が停止した。居住していた住民は離散を強いられ、地域の繋がりと言ったコミュニティ面でも壊滅的な打撃を与えている。
 
福島第一事故後(2011年以後)、福島第一の半径20km圏内は立ち入りが禁止され、住民は退去を強制されている。
{{main2|事故後の状況については「[[福島第一原子力発電所事故の影響]]」を}}
 
{{main2|福島第一事故後の状況については「[[福島第一原子力発電所事故の影響]]」を}}
 
また、発電所内の作業や関係者の生活状況などについては各発電所の記事を参照のこと。
 
なお、福島県によると、1976年当時、地元町とは下記を指す{{Sfn|アトム福島編集部|1976|p=1}}。
*福島第一原子力発電所:[[双葉大熊町]]、[[大熊双葉町]]
*福島第一原子力発電所:[[楢葉町]]、[[富岡町]]
基本的には県及び上記4町を中心に記載する。
 
== 福島第一原子力発電所用地の買収 ==
鈴木智彦が建設業に転身した地元の元[[暴力団]]関係者に取材したところ、建設当時は地域社会と[[暴力団]]との結びつきは密接で、法律的な規制もほとんど存在しなかったという。上述のように地元の暴力団は収入源を常磐地域の炭鉱(1960年代までは日本有数の産炭地に近かった)に求めていたが、その炭鉱が閉山してく中で新たな[[利権]]として[[原子力発電所]]は地域を挙げて歓迎され、用地買収をつつがなく取り仕切るため、地元の取りまとめたとして活躍した者も居るのだという。取りまとめの際には(地元の大半が賛成状態とはいえ)「うるせえ奴を一発で黙らせる」という暴力団ならではの仕事もあった。また、土地の売却に当たってポイントとなったのは[[山林]]や[[田畑]]よりも[[墓地]]であり、これも寺社と打合せの上、[[檀家]]を取りめて一括交渉であり、中間マージンを見返りに受け取っていた。ある集落の墓地を近隣に移転した際には、東電側が「住民票が3年以上ある人」を条件としたため、当初補償対象から漏れた家を含めるようにサポートし、感謝されたという<ref>初期の暴力団と地元住民との付き合いについては{{Harvnb|鈴木智彦|2011|pp=23-27}}</ref>。
 
== 経済的影響 ==
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=== 発電所建設による就業形態の変化 ===
1981年当時の[[大熊町]]長遠藤正によれば、発電所の建設工事が本格化した1970年以降、過去県下で「ビリから2、3番目」だった町民の分配所得は工事関係者相手の商売や建設工事自体による町民の雇用によって大きく改善し、県でトップレベルとなった。やや定量的に見ると、1965年当時は7200名の町民が1000[[ha]]の[[水田]]を生活基盤としていたが、農外所得の増加により農業所得への依存構造は後退し、兼業化や離農が進展したからである。
 
このメリットの一つは1970年代初頭よりスタートした[[減反政策]]に適応出来たことであり、大熊町は1970年代、毎年常に割り当ての百数十%の水田を自主減反し、政策による強制減反の実施を1982年度まで遅らせることに成功した。また、950haの水田を基盤整備することで農業の機械化を促進し、労働力に余剰を生じさせ発電所関連の雇用による農外所得に回すことができた。このため、[[冷害]]の激しかった1980年にも町民への所得の打撃は僅少で済んだという{{Sfn|遠藤正|1981|pp=44-45}}。
 
[[福島第一原子力発電所]]5号機と6号機を設置している[[双葉町]]の例によると、原子力発電所誘致以前に選択拡大作物の一つであった[[畜産業]]は1975年と1990年ではほぼ横ばいである。これは、恒常的な通勤兼業の場合労働配分の上で障にならないのは稲作で、1戸当たりの水田が1.1ha程度であるため、[[農機具]]を装備すれば兼業の片手間で十分な耕作が可能な、複合経済化に適した作物だったからである。1980年と1990年の比較では、1戸当たりの所得は2.4倍(719万円)に増加し、構成比率でも農外所得が2.0倍、所得の75%を占めるに至った{{Sfn|竹中久二雄|章政|1994|p=47}}。
 
問題は[[農機具]]の投資が過剰装備となること([[機械化貧乏]])であるが、土・日曜日の操業で効率を上げるためにはこれらの[[農業機械]]は必須でもあった。1990年当時では1戸の農家が稲作を行おうとすると1000万円の投資が必要とされ、[[耕耘機]]、[[田植機]]、[[コンバイン]]、[[バインダー (農業機械)|バインダー]]、スプレアー等の装備率は農家1戸に対していずれも1.0台以上だった、その他、安定成長期以降の日本ではどこでも見られた後継者難、三ちゃん農業化も進行している{{Sfn|竹中久二雄|章政|1994|p=49}}。
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なお、福島県は『原子力行政の現状』にて上述の「長期的、総合的、広域的観点からの計画振興」のため、「電源地域振興特別措置法(仮称)」の制定を求めていた。岡上哲夫は、従来の推進派の思考から言えば、「ポスト原発」は原子力発電所の増設という形でも良かったが、電力需要の鈍化により新設計画自体が縮小されている当時の事情の下ではその論理が通りにくくなっていたため、上記の法制化要求に至った旨を解説している。そして「これはいささか虫のよい、筋の通らない話ではないだろうか。もとはといえば、電源三法交付金やもろもろのうまい金で、豪華で立派な屋敷を建てたのはそちらである。今になって電気、ガス、水道代が払えないが、俺はこの屋敷が気に入ってるから出たくない、維持費はお前たち(国民の税収)が払ってくれ、と言われても困るのはこちら側である」と批判している<ref>福島県の「電源地域振興特別措置法(仮称)」制定要請への批判については{{Harvnb|岡上哲夫|1985|pp=73-74}}</ref>。
 
=== 福島県 ===
==== 『双葉原子力地区の開発ビジョン』 ====
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*富岡町:行政・文教機能
 
また、21世紀に向け、[[東海村]]その隣町(北隣の[[日立市]]と南隣の[[ひたちなか市]])の関係のように、大熊と48km離れた周辺地域([[いわき市|いわき]]と[[相馬などの周辺地域市|相馬]])に[[日立製作所]]のような巨大工業集積が見られる段階になった場合、原子力産業以外の工業が締め出される懸念まで想定している。また、[[自家発電]]制度を改正して原子力の導入を可能とし、[[アルミニウム|アルミ]]精錬等の電力多消費型産業を誘致することで原子力と他産業を直結した形で発展させる方法についても提言された{{Sfn|佐藤康幸|1989b|p=88}}。
 
なお、この調査結果は、一般公衆に広く公開されることは無かったばかりか、地元町にも知らされず、県と委員会参加組織だけが知っていたという{{Sfn|佐藤康幸|1989b|p=87}}。
 
==== 双葉地域開発基本構想 ====
1972年には福島県が茨城県[[東海村]]で着手されつつあった事故時の避難経路確保をも名目とした、道路建設などの地域振興計画を模倣し「双葉臨海地区新地方工業開発都市建設調査」「電源地帯福祉対策調査」が実施中であり、同年9月の県議会でこの結果を待ち、当時国で立法を検討していた電源三法の動向を見据えつつ、具体的な振興策を実施する旨が答弁されている{{Sfn|山川充夫|1987|pp=160}}。『原子力発電に対する疑問に答える』では県は1972年~73年度に日本工業立地センターに委託し「双葉地域開発計画調査」にて開発の基本方向を検討し、次いで1973年度~1974年度に相双地域エコロジー調査を[[三菱総研]]に委託して実施したとされている。また、有識者、町村長、県関係部長で組織する相双地域振興計画策定協議会を1973年12月7日に発足させた{{Sfn|科学技術庁原子力安全局原子炉規制課監修|1974|p=129}}。この協議会では審議中の電源三法を意識しつつ、下記の方向で振興を進めることが確認されている。
 
#地域特性を生かし、自然環境の保全を図りながら基幹産業である農林水産業の振興と地域に調和した無公害型の工業開発を図る
#商業振興と海浜リゾートゾーンを形成する観光開発を進める
#振興の基盤となる交通網整備、生活環境施設、社会福祉施設、教育施設などの公共施設の整備を積極的に推進する
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なお、福島第二原子力発電所建設前の公聴会において再処理工場を設置しないように要望が出され、これについては受け入れられ、「双葉原子力地区の開発ビジョン」との相違点の一つになっている{{Sfn|科学技術庁原子力安全局原子炉規制課監修|1974|p=130}}。
==== 核燃料税の引き上げ ====
福島県が[[核燃料税]](法定外普通税)の徴収を開始したのは1977年の事で福井県に次いで2番目であった。同年9月議会に諮り、その後自治省に許可申請した。当初は原子炉に挿入された核燃料価格の5%として、85億円を見込んだ。使途としては知識啓発、周辺放射能監視、温排水影響調査、住民の健康管理対策、生活環境整備などが挙げられている{{Sfn|アトム福島編集部|1977|p=1}}。
{{節stub}}
 
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=== 大熊町 ===
==== 原子力発電所誘致と初期の観光資源調査 ====
大熊町は1958年に大野村と熊町村が合併して誕生成立した。その際「大熊町建設計画」を策定したが町財政が極端に悪化し、計画通り運用できない状態だったため、原子力発電所の誘致活動に積極的だった事情がある{{Sfn|山川充夫|1987|pp=152-153}}。
 
その後、1964年に財政再建を果たし、1967年より「大熊町総合開発特別委員会」を設置し、当所は原子力発電所を中心とした観光開発を前面に押し出していた{{Sfn|山川充夫|1987|pp=160}}。
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ただし、原子力発電所ブームに雇用の大半が吸収されたために、町内全体の事業所はそれほど数を増やすことはなく、規模も零細が多かった{{Sfn|大熊町史編纂委員会 編.|1985|p=823}}。
 
==== 2000年代以降 ====
その後、2008年には[[アグロ カネショウ]]が進出したが、事故により閉鎖、茨城県[[結城市]]に移転している<ref>[http://www.jacom.or.jp/agribiz/2011/11/agribiz111114-15386.php 生産拠点を茨城県結城に新設 アグロ カネショウ] 『農業協同組合新聞』2011年11月14日</ref>。
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葉上太郎は両町の原子力発電依存に批判的だが、1980年代に箱物行政を推進したという視点からの批判は的外れである旨も指摘している。逆に、「ポスト原発」の一つとして双葉町が図書館を建設、1984年に開館させたことや県でも6市町村しか実施していない小中学校図書館への読書活動支援員の配置(これも電源交付金による)などを人材育成面から評価している。{{Sfn|葉上太郎|2011|pp=188}}。
 
なお、正門やメーン道路が1号機から4号機までを持つ大熊町に設けられたことで関連企業は軒並み大熊町側に立地し、5号機以後を持つ双葉町では法人税収はそれほど伸びなかった{{Sfn|葉上太郎|2011|pp=188}}。そして、交付年限を区切っていた発電所関連の交付金が打ち切られ、固定資産税収入も低下した1990年、世間が[[バブル景気]]を謳歌していたにもかかわらず、双葉町は財政力指数が1.0を下回り、交付団体に転落した{{Sfn|葉上太郎|2011|pp=188-189}}。
 
==== 増設を前提とした公共投資拡大 ====
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また、原子力以外の国策による影響もあった[[介護保険]]導入はその一例で、1999年に17億円を投じて完成した「ヘルスケアふたば」は、保険が求めるサービス提供施設として建設されたものである。都市部では民間事業者がこうした施設建設に参入するが、”田舎”には参入する民間事業者は無く、結局自治体が施設整備し、全国的にも財政圧迫の一因となっていたものであった{{Sfn|葉上太郎|2011|pp=190}}。
 
==== 緊縮財政への転換 ====
一方で、7・8号機の建設は延々として始まらず、双葉町も2005年に財政政策を転換した。大規模公共事業は次々中止、延期され、職員と議会予算は削減された。当時の町長は会社員から転じた井戸川克隆であったが、自身の給与も(過去の施策決定者ではないにもかかわらず)一時的に給与の手取りを0円とするなどの姿勢を提示した。ただし、将来を考え文教、福祉サービス予算は削減対象外とした。この身の丈に合った緊縮財政は当初町民の不満を惹起したが、井戸川の就任後、歳出削減策が講じられたことで、実質公債比率は2006年度の32.5%をピークとして下がり始めた{{Sfn|木舟辰平|2009|p=42}}。その後も町財政は改善を続け、2010年度決算で遂に実質公債比率を25%以下とし、黄信号を脱出する見通しだった{{Sfn|葉上太郎|2011|pp=189-190}}。原子力発電所事故はその直前に発生した。
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=== 協力金 ===
福島県は東京電力などから協力金という形で税収以外の寄付を受けていたが、『原子力行政の現状』にはその記載が無く、岡上哲夫はこれを「裏金」と批判している<ref>寄付金については{{Harvnb|岡上哲夫|1985|pp=73}}</ref>。
=== 電源地帯の電力料金 ===
東京電力が管外である福島県に発電所を設置したことで、立地自治体の住民は地元電力会社の料金制度に従って支払いをするという点からの矛盾が、1980年頃には指摘されている。これは当時、[[総括原価]]制の元で逐次料金改定を実施した結果、東北電力の電力料金が東京電力より高価になったからであった。そのため、立地地域からは電源地帯の電力料金を割り引くように意見が出てきた{{Sfn|吉松氏吉|1980|p=35}}。このことに対して東京電力最高顧問の吉松氏吉は、当時建設中だった[[柏崎刈羽原子力発電所]]からの送電コストを例示して東京電力側の料金が東北電力より高価になった場合の対応について疑問を示した{{Sfn|吉松氏吉|1980|p=40}}。
 
また、電源の多く立地する「発電圏」の料金低減意向については、自身が戦前の小規模事業者割拠時代からのキャリアを持つことを根拠に、総括原価制によって整理された現行体制を複雑化することで、制度的に「退化」するものと見なしている{{Sfn|吉松氏吉|1980|p=36-38}}。代替策として[[電源開発促進税]]交付金の振り分けを調整し、発電地に恒常的に一定額を分配することを提案している{{Sfn|吉松氏吉|1980|p=41}}。
 
=== プルサーマル ===
[[プルサーマル]]の実施に際し、国は受入を決めた立地自治体に対して、総額60億円の「核燃料サイクル交付金」を交付することになっていたが、2008年度末に設定していた申請期限内に福島県内から受け入れを表明する動きは本格化しなかった{{Sfn|高橋記者|2009|pp=36}}。その後2009年6月に東京電力は県議会にプルサーマル実施の議論再開を求め、議会でも受け入れへの動きが本格化していった{{Sfn|高橋記者|2009|pp=33}}。この情勢について『財界ふくしま』は「プルサーマルは、単に、いまの原発に代わる交付金の入り口に過ぎなくて、最終的には原発の増設が目的ではないか。プルサーマルの議論再開より、原発の増設議論の方がすっきりするけれど、国の方針がプルサーマルとなっているから立地町としてはすぐに増設にはいけないというのが本音ではないか」との推測を紹介している<ref>プルサーマル受け入れとその意図の推量については{{Harvnb|高橋記者|2009|p=34}}</ref>。
 
=== 公共施設の拡充 ===
[[File:Futaba Town Office.jpg|thumb|150px|right|双葉町役場]]
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*分校2校:改築
 
福島県内の原子力発電所立地町村にもたらされた税収の使途については全体的な傾向として、半分は道路整備に投資され、それに次ぐのがスポーツレクリエーション施設であるという。同じ原発銀座である福井県の若狭地方では道路整備への投資は6%に過ぎず、両者に大差がついたのは地形上の差が大きいという{{Sfn|北村俊郎|2010|pp=49}}。双葉町の場合は水道の整備も重視された{{Sfn|北村俊郎|2010|pp=49}}。
 
発電所の設置は交通にも影響を与えている。両町に一駅ずつある[[常磐線]]については特急、急行の一部が停車するようになったという。双葉町役場の担当者は「駅無人化の話はない」とコメントしたが、大熊町役場の担当者は「複線化、電化は無理」と述べた(実際にはコメント当時電化は実現済みで[[大野駅 (福島県)|大野駅]]-[[双葉駅]]など一部は複線化されている)。[[常磐自動車道]]の延伸については地元自治体で期成同盟を結成し、運動を実施していた{{Sfn|山川充夫|1987b|p=12-13}}。その後、常磐自動車道は順次延伸され福島第二原子力発電所、[[夜ノ森駅|夜ノ森]]近い富岡ICまで開通し、事故直前の予定では2011年度に原ノ町まで延伸される予定であったが、事故発生により無期延期されている。
 
== 社会的影響 ==
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*福島第一原子力発電所の建設初期に安全協定を作成した際、地元町が無関心に近かったことは、福島県側からの追加提案で双葉、大熊両町にも提示するように薦められ、初代所長の今村博を通じて両町に提示したところ、「そのようなわずらわしいことには関わりたくない」旨の返答があったというエピソードにも表れている<ref>安全協定締結についての松永の回顧は{{Harvnb|松永長男|1995b|pp=10-11}}</ref>。その後、1974年に双葉郡の分署を統括する浪江消防署が東京電力に対して、施設内の火災と原子炉の事故の際の消火と災害計画を明らかにするように求めたが、1974年1月に入っても回答は無かった。また、東京電力と地元町村との防災対策に関する打合せも1974年に1回持たれたが、結果については秘密であり消防には通知されず、浪江消防署には放射線防護用の気密服も1着も装備されていなかった{{Sfn|吉原公一郎|1975|p=185}}。
 
*吉原のような反対派から対応策の不備を指定されていた福島県は1980年9月、原子力対策室から主任主査が1名、原子力産業会議の主催でヨーロッパの視察を行った。報告記事では、環境モニタリングは年1回実施しているものの、常時監視するためのテレメータシステムを採用しているサイトは無く、発電所と立地町村役場との安全協定に相当するものも結ばれていなかった旨記載されている。この背景として視察先の(西側)各国の立地自治体には「原子力発電所はもともと安全である。安全な施設に対してそこまでする必要はない」という考えが根底にあるという。そのため「安全対策、とくに周辺地域の監視体制については日本の方がはるかに進んでいるという印象を強く受けました」としている{{Sfn|県原子力対策室|1981|p=5}}。
 
*なお、大熊町でも1980年代初頭当時に反対運動家がシンポジウムを開催するなど一定の活動がみられたが、これには町からも参加し、平行線に終わることが多かったが議論を行っていた。遠藤は『経営コンサルタント』のインタビューに対して半減期の解釈に関する説明を例示し「私は少なくとも原発は安全だという理解は深めています。絶対安全だとは言いませんけどね」と応じている。また、当時地元のシンポジウムに呼ばれた反対派の学者も「原子力は絶対に危険だ」とは決して言わず、放射能の長期的な影響にウェイトを置いた説明をしていたという{{Sfn|遠藤正|1981|p=47}}。
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*社会資本の投資にやや遅れて、双葉、大熊両町の[[防災無線]](一般広報用途を兼ねる)は1983年4月に開局している<ref>{{Cite journal|和書| author = アトム福島編集部| year=1983b | date = 1983-03 | title = 双葉町の新庁舎落成 | journal = アトム福島 | publisher = 福島県 | volume = 40 |pages=3 | ref=harv}}</ref>。
 
*1986年には[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]が発生した。しかしこの時は大半の町民に危機感が共有されることはなく『エネルギーフォーラム』の記者は「町民は「遠い国の出来事」と受け止めている」と表現している。また、大熊町長遠藤正は「あの日から一週間ほど町民の反応を見ていたが、問い合わせは一件もなかった。わが国の原発が安全だと信じ込んでいるのか、それともあきらめなのかははっきりしないが…」と述べている{{Sfn|記者の目|1986|pp=91}}。
 
*2002年に発覚した東電トラブル隠し事件の影響は毎年恒例で実施していた県原子力防災訓練にも及んだ。2002年11月の防災訓練では同年4月に稼働した県のオフサイトセンターを使用し、想定シナリオは隠ぺい、トラブル隠しを反映して「6号機で配管が破断し冷却水漏えい、格納容器から放射性物質が漏れた」という状況で開始した。また、プラントの応急処置を訓練に初めて盛り込み(注水器弁も壊れたと想定し、その修理作業訓練を組み込み)、近隣住民も参加しての避難も実施した。訓練には200機関1680人が参加し、「生々しい」との声もあったという<ref>「原子力防災訓練、トラブル隠し受け実践的に、センター初使用」『朝日新聞』2002年11月9日朝刊27面(福島1)</ref>。
 
=== 意識分析 ===
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*[[福島第一原子力発電所7、8号機の増設計画の経緯]]
*[[福島第一原子力発電所反対運動]]
*[[標葉郡]]
*[[楢葉郡]]
 
{{デフォルトソート:ふくしまのけんしりよくはつてんしよとちいきしやかい}}
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[[Category:日本の原子力史]]
[[Category:福島県の歴史]]
[[Category:浜通り]]
[[Category:福島第一原子力発電所]]