「浜通り」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
39行目:
== 歴史 ==
=== 古代 ===
古代の浜通りは、[[道奥菊多国造]]や[[石城国造]]の領土だっなどが割拠していたと言われている。[[律令制]]で[[常陸国]]が成立する前である[[7世紀]]後半には、これらの国造が統合されて[[多賀郡|多珂国]]となり、その南限が[[日立市|助川]]で、北限が「苦麻」の邑と呼ばれた[[大熊町|熊川]]だった時期もあった<ref>『日本歴史地名大系 福島県の地名』205頁</ref>。この多珂国では、助川は「道前 (道の口)」、苦麻の邑は「道後 (道の尻)」とも呼ばれていた
 
しかし、[[律令制]]で[[中央集権]]国家が形成されると、多珂国は熊川までが[[常陸国]]と[[陸奥国]]に分けら編入さたが後に現在の[[国道6号#トンネル|平潟トンネル]]付近を境分割され、平潟以北が[[陸奥国]]に編入された。この平潟トンネルの崖のすぐ北に「[[勿来]]関(当初の名称は」と呼ばれる菊多関が設置された。又、律令制下で時代の[[720年代]]には[[石城国]]が設置分離されるも、数年で[[陸奥国]]に編入された。
 
=== 岩城氏と相馬氏による統治 ===
50行目:
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]になると、相馬氏は[[小高町|小高]]を本拠地として[[北朝 (日本)|北朝]]方につき、岩城氏は初めのうち[[南朝 (日本)|南朝]]方についたが、後に北朝方についた。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、相馬氏(本拠地:小高→[[中村町 (福島県)|中村]])が南朝方であった[[標葉氏]]を滅ぼし、[[標葉郡]]を領土に収めて勢力を拡張し、岩城氏(本拠地:[[平 (いわき市)|飯野平]])と境界を接した。この相馬領と岩城領の境界が、熊川の1km2kmに位置する[[夜ノ森駅|夜ノ森]]であった。西には現在の[[福島県]][[中通り]]中部を領土とする[[田村氏]](本拠地:[[船引町|船引]]・[[三春町|三春]])や[[蘆名氏]](本拠地:[[会津若松市|会津若松]]・[[岩瀬町|岩瀬]]・[[須賀川市|須賀川]])が、南には現在の[[茨城県]]北部(本拠地:[[常陸太田市|常陸太田]]→[[水戸市|水戸]])を領土とする[[佐竹氏]]が、北には現在の[[福島県]][[中通り]]北部から[[宮城県]]南部まで(本拠地:[[伊達市 (福島県)|伊達]]→[[米沢市|米沢]]→[[岩出山町|岩出山]]→[[仙台市|仙台]])を領土とする[[伊達氏]]が、それぞれ勢力を拡大した。<br>
この戦国時代において、浜通りは佐竹・伊達・田村・蘆名の4勢力の[[緩衝地帯]]、特に[[大熊町|熊川]]は相馬と岩城を加えた6勢力の[[緩衝地帯]]となった。そして、相馬領と伊達領の境界が、相馬氏の本拠地だった[[中村町 (福島県)|中村]]に近い[[駒ヶ嶺城|駒ヶ嶺]]であった。一方、岩城領と佐竹領の境界は、律令時代と同じく[[勿来]]であった。
 
=== 徳川藩政時代 ===
[[関ヶ原の戦い]]で西軍に就いた岩城氏は、飯野平から追放され、[[亀田町 (秋田県)|亀田]]([[由利本荘市|由利本荘]]の郊外)に飛ばされた。代わって、浜通り南部は[[磐城平藩]]の領土となったが、[[鳥居氏]]や[[安藤氏]]など藩主は何度か入れ替わった。

一方の浜通り北部は、相馬氏と伊達氏との折衝の結果、相馬氏は領土の安堵を許され、引き続き相馬氏が治める[[相馬中村藩|中村藩]]の領地となった。[[大堀相馬焼]]などの特産品は、この[[江戸時代|藩政時代]]に始まったものである。
 
=== 戊辰戦争と廃藩置県 ===