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[[古墳時代]]後期に[[ヤマト王権]]と中国大陸・朝鮮半島との国家的な交流の増加とともに帰化人の中から通訳の事を行う一族([[ウヂ|氏]])が登場した。「オサ(ヲサ)」の語も元は古代朝鮮語であったとする説もある。
 
だが、世代を重ねるにつれて言語の変化もあって世襲の氏による訳語の価値が減じ、代わって留学経験者などが訳語の役目を務めるようになった。また、[[大学寮]]においても[[音道]]が設けられていたが、9世紀前半には世襲や大学寮による育成は形骸化<ref>宝亀年間の請学生であった伊与部家守は漢語(中国語)に堪能であったが、その学を受け継いだ息子の善道真貞は大学博士にまで昇ったものの、語学が全く駄目で[[四声]]も理解できなかったと酷評されている(『日本紀略』延暦19年10月庚辰条・『続日本後紀』承和12年2月丁酉条)。</ref>し、そのため来日外国人から教授を受けたり、当人を訳語に抜擢する方法が採用された。
 
『[[延喜式]]』には[[遣唐使]]・[[遣新羅使]]・[[遣渤海使]]などに訳語・通事が置かれたことが知られる他、新羅訳語・奄美訳語などの官職が存在したことが知られている。新羅訳語・奄美訳語については、漂着時に備えて新羅や奄美の言葉を話せる者を同行させたとする見方と、新羅・奄美出身の訳語とする見方がある。
 
当時の東アジアでは漢字および漢文が広く用いられていたことから遣唐使なども文書を読むことや筆談に関しては支障がなかったとみられているが、会話に関しては訳語なくして円滑なコミュニケーションを取ることは困難であった。また、唐国内では遣唐使などの外国使節は役人以外の唐の人々と会話をすることは禁じられていた(『唐律疏議」巻8衛禁・越度縁辺関塞条疏議所引「唐主客式」)が、現実には船が漂着した時や必要文物の調達などのためには現地住民との会話が必要となるため、訳語の存在が必要であった。また、留学生においても同様であり、[[最澄]]は同行していた弟子の[[義真]]が訳語としての能力を有していたおかげで業を為し得たことが知られている(『扶桑略記』延暦21年9月2日条)
 
なお、『[[唐六典]]』によれば、唐の鴻臚寺には定員20名の訳語が設けられていたと記されているが、その多くが新羅などの近隣もしくは使者の来訪が多い国の訳語であったとみられ、日本語の訳語はほとんどいなかったとみられている<ref>ただし、唐に日本語の訳語がいた可能性もある。五代から北宋にかけての人物である[[陶穀]]が記した『清異録』によれば、唐の建中年間(日本の宝亀年間)の日本使(遣唐使)の1人であった真人興能(布施清直と推定されている)の書の見事さに訳者が彼の書を譲って貰った故事を載せている。前後のやりとりからこの訳語が唐側の訳語であった可能性が高い(榎本、2008年、P162)。</ref>。
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*青木和夫「訳語」(『国史大辞典 2』(吉川弘文館、1980年) ISBN 978-4-642-00502-9)
*森公章「訳語」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523001-6)
*榎本淳一「遣唐使と通訳」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(ISBN 978-4-642-02469-3 原論文:2005年))
*森公章「遣唐使と唐文化の移入」(『遣唐使と古代日本の対外政策』、吉川弘文館、2008年(ISBN 978-4-642-02470-9 原論文:2008年))
 
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