「律令制」の版間の差分

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天智天皇の死後、[[壬申の乱]]を経て政権を奪取した[[天武天皇]]は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。主要な政治ポストには従来の[[豪族]]ではなく諸[[皇子]]をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、[[681年]]に天武天皇は律令制定を命ずる[[詔]]を発出した。天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、[[689年]]の[[持統天皇]]の時代に令が完成・施行された。これが[[飛鳥浄御原令]]である。この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。また、現在判明している範囲では浄御原令の官制などの制度は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]や[[隋]]の中国の制度や百済・新羅などの朝鮮半島の制度が織り交ぜられたものと考えられ、令以上に体系性を必要とする律――すなわち「飛鳥浄御原律」が制定されなかった理由の1つと考えられている。また、この時期までに隋律あるいは唐律が日本に伝来された可能性は低く<ref>平安時代の著作になるが、『日本国見在書目録』の中に隋令の存在は確認できる一方で、隋律の存在が確認できないため、隋律は日本には伝わらなかったとみられている。</ref>、日本で律が編纂されるようになるには、唐との関係改善によって唐からの律法典が将来され、それを理解して日本の国情に合わせて改編できる人材の確保(唐留学生の帰国や唐人の来日)を待たねばならなかったと推定されている<ref>榎本淳一「〈東アジア世界〉における日本律令制」大津透 編『律令制研究入門』(名著刊行会、2011年)所収</ref>。
 
その後の[[701年]]に、[[大宝律令]]が制定・施行された。大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められており、律令施行とほぼ同時に、[[日本]]という国号と最初の制度的[[元号]]([[大宝 (日本)|大宝]])が正式に定められた。さらに、大宝律令の制定後まもなく、空前規模の都城である[[平城京]]が、9年の歳月で建設された。これらの事実は、律令施行があたかも一つの王朝の創始(または国家建設に擬せられていたことを表している。律令編纂に中心的な役割を果たした[[藤原不比等]]は、その後、[[大納言]]・[[右大臣]]へ昇進し、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。
 
律令制定に伴って、正史[[日本書紀]]の編纂、[[風土記]]の撰上、[[度量衡]]の制定、[[銭|銭貨]]の鋳造などが行われた。これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であった。
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その後、[[9世紀]]の前期から中期にかけて、律令制を再整備しようとする動きが活発となる。律令の修正法である格(きゃく)と律令格の施行細則である式(しき)が、大宝律令の施行以後、多く残されていたが、820年にそれらを集成した[[弘仁格式]]が編纂された。更に[[830年]]には、[[天長格式]]が撰修され、[[834年]]には令の官製逐条解説である『[[令義解]]』(りょうのぎげ)が施行された。これらは、律令制の実質を維持していこうとする意思の表れだった。しかし、律令制の弛緩、換言すれば別の統治体制への移行は、時代を追うたびに進展し、特に班田制の崩壊が著しかった。こうした状況下で、870年前後に[[貞観格式]]が編纂・頒布されるとともに、[[868年]]には、律令条文の多様な解釈を集成した私的律令解説本の『[[令集解]]』(りょうのしゅうげ)が[[惟宗直本]]により記された。
 
[[10世紀]]には、最後の格式となる[[延喜式]]が編纂された。しかし、律令制はこの時期にほぼ実態を失ってしまう。多くの論者が、律令制は遅くとも10世紀末までに死滅したとしている。律令制に基づく律令国家から請負統治に依拠する[[王朝国家初期荘園]](前期王朝国家)へ転換したとする見解が広範な支持を得ている。ただし、律令制の死滅は、[[律令]]もしくは[[律令法]]の死滅を必ずしも意味していないので、律令の名目上の完全な終焉時期も重要であるが、制度としての律令制が崩壊したことに注意する必要がある。[[11世紀]]以降も、律令の一部の条文は効力を保持していたからである。そして、[[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]のように、律令制への回帰を求める動きも少なからず何度も出現していた。しかしながら、律令制の根幹を成す王土王民思想や一君万民思想は武家政治の根幹を成す[[封建制|封建的君主制]]とは相容れない存在であり、建武の新政は謂わば時代遅れの政治体制であったことは否めなくなっていた。
 
律令の中には[[明治維新]]まで有効とされていたものもある。例として[[太政官]]制があり、[[1885年]]([[明治]]18年)に廃止されるまで続いた。