「神護寺」の版間の差分

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*'''神護寺'''(じんごじ)は、[[京都市]][[右京区]]高雄にある[[高野山真言宗]][[遺跡(ゆいせき) (中世)|遺跡]]本山の[[寺院]]。[[仏塔古寺十八尊]]第七番。本項で詳説する。
*'''神護寺'''(じんごじ)とは、[[神仏習合]]が許されていた[[江戸時代]]以前、[[神社]]に付属しこれを管理した寺のこと。[[神宮寺]]または[[別当寺]]と同義。
 
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文化財 = 木造薬師如来立像、絹本着色釈迦如来像、梵鐘ほか(国宝)<br />大師堂、絹本著色十二天像六曲屏風、絹本著色真言八祖像8幅ほか(重要文化財)|
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'''神護寺'''(じんごじ)は、[[京都市]][[右京区]]高雄にある[[高野山真言宗]][[遺跡(ゆいせき) (中世)|遺跡]]本山の[[寺院]]で、山号を高雄山と号する。本尊は[[薬師如来]]、開基は[[和気清麻呂]]である。
 
== 概要 ==
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天長元年(824年)の太政官符(「類聚国史」「類聚三代格」など所載)によれば、この年、神願寺と高雄山寺の寺地を「交換」し、寺号を「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」とし、この寺は定額寺(官が保護を与える一定数の私寺のこと)に列せられた。寺地の交換が行われたのは、神願寺の所在する土地に「汚穢」(けがれ)があり、仏法の道場としてふさわしくなかったからとのことである。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味で、この寺が密教寺院であることを明確に示している。
 
神護寺は、空海の後、弟子の[[実慧]](じちえ)や[[真済]]が別当(住職)となって護持されたが、平安時代末期には衰退していた。中世、神護寺再興に力があったのは『[[平家物語]]』などで知られる武士出身の僧・[[文覚]](もんがく)であった。彼は[[仁安 (日本)|仁安]]3年(1168年)、神護寺に参詣するが、[[八幡大菩薩]]の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒れ果てていることを嘆き、再興の勧進を始めた。その後、[[後白河天皇|後白河法皇]]や[[源頼朝]]らの援助を得て、寺の再興は進んだ。文覚自身は罪を得て対馬(隠岐とする説もある)に流され、配流先で生涯を終えたが、神護寺の再興は弟子の[[上覚]](上覚房行慈)によって完遂された。なお、鎌倉時代に華厳宗を復興し、高山寺を中興した僧・[[明恵]](みょうえ)は上覚の甥で、やはり神護寺に住したことがあった。
 
==伽藍==
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:平安時代末~鎌倉時代初期の作。密教修法の際、道場に立てた屏風である。
*'''梵鐘'''
:[[貞観_(日本)|貞観]]17年(875年)の作。鐘の表面に鋳出された長文の銘文は、文人の[[橘広相]](たちばなのひろみ)が詞を、[[菅原是善]](道真の父)が銘を作り、歌人で[[能書家]]でもあった[[藤原敏行]]が字を書いたもので、当代一流の文化人3人が関わっていることから、古来「三絶の鐘」と称されている<ref>「詞」とは鐘銘の前段の梵鐘製作の由来などを漢文で記した部分を指し、「銘」とはその後に続く韻文の部分を指す。</ref>。2階建ての鐘楼の楼上に架かっており、一般には公開されていない。
*'''灌頂歴名'''
:弘仁3年(812年)、空海が神護寺の前身である高雄山寺で灌頂の儀式を行った際の受者の名簿で、空海の自筆である。空海の普段の筆跡を伝えるものとして、[[書道史]]上にも重要な作品。