「日本軍の階級」の版間の差分

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===== 士官の任用 =====
草創期は様々な任用がなされた。代表的なものとしては、次のものなどがある。
* 従来の旧海軍等の経験に応じた任用がなされたものとしては、[[中島佐衡]]、[[赤塚源六]]、[[肝付兼行]]、[[柳楢悦]]、[[伊藤雋吉]]、[[井上良馨]]、明治3年に中佐に任官した[[中牟田倉之助|中牟田武臣(当時)]]、[[伊東祐麿]]、明治4年に少尉補に任官した[[鮫島員規]]、明治4年に海軍少尉に任官した[[神辰太郎]]、明治4年に大尉に任官した[[坪井航三]]、明治5年に少佐に任官した[[仁礼景範]]、1875年(明治7年)4月4日に海軍少将に任官した[[肥田浜五郎]]及び[[赤松則良]]<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA09054378200 、3頁。</ref>、明治7年8月1日に中将に任官した川村純義<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA09054378200 、3頁。</ref>、1875年(明治8年)に少尉に任官した[[角田秀松]]など多数。
* 陸軍から海軍に転じた者としては、明治5年に海軍中佐に任官した[[安保清康|林清康(当時)]]、1871年に海軍に転じた[[児玉利国]]、明治6年に海軍少佐に任官した[[有地品之允]]、明治17年に海軍少将に任官した[[樺山資紀]]、1893年(明治26年)5月、海軍主計総監に任官した[[川口武定]]など多数。
* 外国の海軍兵学校等に留学させてその課程を修了した者としては、少佐に任官した[[仁礼景範]]、1873年(明治6年)12月に中佐に任官した[[松村淳蔵]]、1874年(明治7年)8月に少佐に任官した[[坪井航三]]、1874年(明治7年)に中尉に任官した[[柴山矢八]]、1878年(明治11年)1月に大尉に任官した[[勝小鹿]]、1879年(明治12年)1月に中機関士に任官した[[佐双左仲]]、1881年(明治14年)9月に中尉に任官した[[井上良智]]、1881年(明治14年)11月に中尉に任官した[[瓜生外吉]] 、明治23年に少尉に任官した[[東伏見宮依仁親王]]など。
 
もっとも、兵科士官候補生を教育する機関は非常に早い時期から設置されており(海軍操練所・海軍兵学寮・海軍兵学校など名前も変遷した(詳細は[[海軍兵学校 (日本)#沿革]]参照。)。)、これらの出身者が兵科士官の中核を占めるようになっていった(日本の海軍兵学校が整備された後も外国の海軍兵学校に留学させることはあった<ref>1893年(明治26年)3月30日に海軍少尉候補生に任じられた[[伏見宮博恭王|華頂宮博恭王(当時)]]などがいる。</ref>。)。
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|rowspan="2" |五等卒||五等若水兵||||||||rowspan="2" |五等木工||rowspan="2"|五等槙筎工||rowspan="2"|五等塗工||rowspan="2"|五等桶工||五等火夫||rowspan="2"|五等鍛冶||rowspan="2"|五等兵器工||
|-
|二等若水兵|||||||||二等若火夫||
|}
 
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|}
 
准士官の官名が変更された。「兵曹上長」・「兵曹長」が「上等兵曹」とされ、「木工上長」・「木工長」が「船匠師」と改められた。なお、明治19年7月13日に、上等兵曹・軍楽師・機関師・船匠師への一斉任官が行われている<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA09054378200 、34-38頁。</ref>。中尉階級が廃止されたため(大尉に統合された<ref>中尉は奏任5等であったが、この時期の大尉は奏任4等及び奏任5等とされていた。</ref>)、明治30年12月1日に中尉階級が再度設置されるまでの時期に当たっていた海軍兵学校7期から17期出身者は、中尉階級を経験していない
 
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|publisher = 帝国海事協会
|page = 15
}}]</ref>。また、准士官として上等信号兵曹が置かれた<ref>明治30年勅令第310号</ref>。中尉階級の再設置に伴い、海軍兵学校第18期出身者<ref>[[佐藤皐蔵]]など。</ref>は、12月1日付で少尉から中尉に、同月27日付で中尉から大尉になった
 
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