「チェコスロバキア国民社会党」の版間の差分
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'''チェコスロバキア国民社会党'''( - こくみんしゃかいとう、Československá strana národně socialistická、ČSNS)は、[[チェコスロバキア]]の中道左派政党<ref>類似の党名を持つが、イデオロギー的に対極にある[[
==党名の変遷==
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1897年4月に青年チェコ党内で[[ハプスブルク帝国]]からの独立を求める社会主義者のグループが設立した。
チェコスロバキア建国後、同じ左派政党である[[チェコ社会民主党|社会民主党]]ともに、労働者の利益を代表し、連立政権の一翼を担った。1921年、エドヴァルド・ベネシュを首班とする政権が成立し、3名の閣僚を出した。しかし[[アントニーン・シュヴェフラ]]政権において、連立相手との対立が表面化した。たとえば、1925年、宗教政策をめぐってカトリック系の[[チェコスロバキア人民党|人民党]]への譲歩に抗議して、ストシーブルニーが独断で閣僚を辞任する事態に至った。そして農作物関税法案をめぐって対立が決定的となり、1926年に成立した第3次シュヴェフラ政権に社民党とともに加わらず、野党となった<ref>ただし、ベネシュは引き続き外相を務めた(専門家枠として入閣)。</ref>。1929年の[[フランチシェク・ウドルジャル]]政権発足と下院選挙を受けて、社民党や[[ドイツ社会民主党 (チェコスロバキア)|ドイツ社民党]]とともに連立に復帰し、1938年の第一共和国崩壊まで政権与党として活動した。
党指導をめぐって、ベネシュとストシーブルニーの間で対立があり、1926年にストシーブルニーが党を追放された<ref>ストシーブルニーは、急進国民社会党、さらに国民連盟を結成し、ファシズム勢力に接近していった。</ref>。
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