「河内山宗春」の版間の差分
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==略歴==
宗春は[[江戸]]出身で、11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]治世下の[[江戸城]][[西の丸]]に出仕した[[表坊主]]であった。表坊主とは[[若年寄]]支配下に属した[[同朋衆]]の一つ。[[征夷大将軍|将軍]]・[[大名]]などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。[[文化 (元号)|文化]]5年([[1808年]])から6年ごろ[[小普請]]入りとなり、[[博徒]]や素行の悪い[[御家人]]たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて[[女犯]]した出家僧を脅迫して金品を強請(ゆす)り取るようになった。巷説では[[水戸藩]]が財政難から[[江戸]]で行っていた[[富籤|富くじ]]の経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]北青山の[[高徳寺]]。
==死後の脚色==
河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。しかしそのことがかえって爛熟した[[化政文化]]を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという[[義賊]]的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては『河内山実伝』<!--(ここでは名は宗心)-->があり、[[明治]]初年には[[松林伯圓|二代目松林伯圓]]が講談『[[天保六花撰]]
==映像作品==
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