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| 所属 = [[大日本プロレス]]
| デビュー = [[1994年]][[10月25日]]
| 引退 = [[2012年]][[7月15日]]
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'''山川 竜司'''(やまかわ りゅうじ、[[1970年]][[4月2日]] - )は、[[日本]]の男子[[プロレスラー]]。

本名'''山川 征二'''(やまかわ せいじ)。[[北海道]][[川上郡 (北海道)|川上郡]][[弟子屈町]]出身。身長176.5cm、体重90kg。[[大日本プロレス]]所属
 
== 経歴 ==
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「不死身」という言葉を「不'''自'''身」と間違えて書いてしまい、以降彼の通り名として定着してしまった。
 
大日本では、[[シャドウWX]]・[[本間朋晃]]と共に、「'''新世代デスマッチファイター'''」として活躍。[[BJW認定デスマッチヘビー級王座]]も獲得してきた
 
1995年には総合格闘技も経験。師匠格の[[桜田一男|ケンドー・ナガサキ]]がバーリトゥード修行にブラジルに渡った際には同行し、共に[[マルコ・フアス]]の道場で修業。滞在中の10月22日にはVALE TUDO BRAZIL OPENに出場。ムエタイのブンシマ・ローンと対戦、ギロチンチョークで敗退する。
 
[[1999年]][[5月30日]]新川崎大会で[[BJW認定デスマッチヘビー級王座]]を初載冠。
 
[[2000年]][[2月22日]]後楽園、[[金村キンタロー]]の持つ[[WEWハードコア王座]]に挑戦し勝利。その年の8月29日後楽園では、[[ジョン・ザンディグ|ザンディグ]]が保持していたデスマッチヘビー級王座にも挑戦したが、敗北を喫する。
 
=== 事故から復帰・休養へ ===
[[2001年]][[3月18日]]・[[博多スターレーン]]大会で試合中、[[ワイフビーター]]がエプロンから場外へのパワーネックハンギングボムを狙った際、距離を誤りフロアに後頭部を強打、[[頭蓋骨骨折]]により、意識不明の重体にまで陥った。
 
療養期間を経て、同年[[12月2日]][[横浜アリーナ]]大会([[WEWハードコアタッグ王座|WEWハードコアタッグ]]&[[BJW認定タッグ王座|BJWタッグ]]両選手権試合・[[MEN'Sテイオー]]・[[関本大介]](BJWタッグ王者組)vs 山川・[[金村キンタロー]](WEWハードコアタッグ王者組))で復帰するも、[[後遺症]]による左半身麻痺と[[椎間板ヘルニア]]の併発で、思うような試合展開が出来ないばかりか、日常生活にも影響を及ぼしていた。特に、[[椎間板ヘルニア]]に至っては、腰を打ってMRI検査で発見されるまで、一切気付かなかったという始末。医師からも「ナメたらエラいことになっていた」とまで言われた。
 
実際、山川はそのような状態にまで陥っても、[[デスマッチ]]を最後までやりこなしていた時もあったが、あまりにも試合内容が不甲斐無く、リングネームを本名に強制変更されたり、「友人」と称するマスクマン「'''ミスター大日本'''」としてリングに上がったりとしているうちに、次第に容態が悪化。[[2004年]][[9月26日]]の[[後楽園ホール]]大会を最後に 1年間の休養を取ることになった。
 
休養後は[[北海道]]に戻り、[[2004年]][[12月1日]]、[[札幌市|札幌]]・薄野で[[スナックバー (飲食店)|スナック]]「'''薄野プロレスYAMARYU'''」を開店。その傍ら、体調を戻す為、トレーニングに励み、大日本の[[サッポロテイセンボウル|札幌テイセンホール]]大会開催時には、団体のPR活動も行っていた。
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1年経過の[[2005年]][[10月14日]]、[[後楽園ホール]]を訪れたが、気持ちの整理がつかないこと、万全な体調ではないことなどを理由に、無期限へと切り替えることを発表した。
 
[[2006年]][[5月5日]]・[[横浜赤レンガ倉庫|横浜赤レンガ]]大会前の記者会見。6月以降の[[桂スタジオ]]大会を実験的な大会と位置付け、新たにデスマッチファイターを公募する記者会見で、盟友[[シャドウWX]]から、「(山川が)[[桂スタジオ]]に出てくるのも一つの手ではないか」と発言。
 
これに奮起した山川は7月、[[札幌市|札幌]]の店を週末のみの営業とし、[[横浜市|横浜]]・鴨居の道場に泊まり込んでの練習を開始。
 
[[2006年]][[9月23日]]、[[越谷市|越谷]]・[[桂スタジオ]]大会にて、兄貴分と慕う[[金村キンタロー]]をパートナーに迎え、同期の[[黒田哲広]]・[[シャドウWX]]を相手に再起戦を行い、復帰を宣言。しかし、[[椎間板ヘルニア]]は完治していない為、実況席で見ていた統括部長(当時)・[[登坂栄児]]からは、「頂点を目指すレスラーとしては『NO』だ」と厳しい評価が下った。
 
10月の[[後楽園ホール]]大会で、[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]軍として[[黒田哲広]]・[[田中将斗]]と組んだ[[金村キンタロー]]から、[[関本大介]]に一回[[田中将斗]]と組んでみる様に提案した際、「ダッサダサで、もうどうしようもないけど山川もおる!」と参加をほのめかし、これを受けて[[10月29日]]・[[サッポロテイセンボウル|札幌テイセンホール]]にて金村・黒田と組んで、関本・[[佐々木義人]]・田中との6人タッグマッチに出場。この時、右肩手術の為に長期欠場が決まっていた[[田中将斗]]から、「お前も[[椎間板ヘルニア]]を治して第一線に戻れ」と提案された。
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[[2011年]][[11月22日]]後楽園大会、休憩明けの挨拶にて、登坂社長から最終期限を「[[2012年]][[7月15日]]・[[サッポロテイセンボウル|札幌テイセンホール]]大会とする」と宣言。
 
[[12月6日]][[新木場1stRING]]大会にて復帰。ここから引退ロードとして、蛍光灯から有刺鉄線、ファイヤーデスマッチや月光闇討ちデスマッチなどをこなし、[[2012年]][[7月15日]]・[[サッポロテイセンボウル|札幌テイセンホール]]大会「蛍光灯+五寸釘ボードデスマッチ」をもって引退した。
[[12月6日]][[新木場1stRING]]大会にて復帰し、7月札幌まで活動予定。
 
引退後は横浜のスナックの営業を継続しつつ、[[運動指導士]]の資格を目指し、スポーツを通じた社会貢献活動に取り組む事を表明。
== 必殺技 ==
* [[パワーボム#派生技|リバース・タイガー・ドライバー]]
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[[Category:日本のプロレスラー]]
[[Category:NOWに所属したプロレスラー]]
[[Category:大日本プロレスに所属するしたプロレスラー]]
[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:1970年生]]