「サルヴァトーレ・シャリーノ」の版間の差分

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{{クラシック音楽}}
'''サルヴァトーレ・シャリーノ'''(Salvatore Sciarrino,[[1947年]][[4月4日]] - )は、[[イタリア]]の[[現代音楽]]の[[作曲家]]。[[シチリア]][[パレルモ]]出身。
 
== 略歴 ==
独学で作曲を学んでいたところ[[フランコ・エヴァンジェリスティ]]にスカウトされ、「オーケストラの為の子守唄」、「二台のピアノの為のソナタ」でデビューする。前衛イディオムからは導けない驚異の音色の魔術師と称賛され、[[ルイージ・ノーノ]]は「鋭い音響の亡霊」と称えた。

当時ちょうど[[ツェルボーニ内紛]]の真っ只中にあり、たった一作を[[ツェルボーニ社]]に預けた後、全作品を[[リコルディ社]]から出版されている契約を1969年に結んだ。だがその後、リコルディの赤字経営が原因は現代作曲家の全作品までまかなうことは出来ず結局2005年にRAI TRADEへ移籍した
 
== 作風 ==
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=== 第一期( - 1979) ===
シャリーノの作風を決定付ける「わかりやすさ」は過剰な反復性と頻繁なパルスの使用にある。その典型例は「de o de do」であり、ただでさえ聞き苦しいモダンチェンバロを隅から隅まで急速な音符で饒舌にまくし立てる。「弦楽四重奏曲第2番(1967)」(これは後に「六つの小さな弦楽四重奏(1992)」として再構成されたものの二作目に当る)は弱音であっても、駒の後ろのピッチカート、舞うようなハーモニクス、聴取の難しい音程の飛躍などを存分に張り巡らせる。確定記譜でありながら、凡庸な楽器法を一切使わない硬派な作曲態度が世界中で絶賛された。以後、「ダッラピッコラ国際作曲賞」をはじめとする様々な受賞歴に輝くことになる。
 
通常、弦楽器の人工ハーモニクスは響きの安定の為に「四分法」しか用いない。しかし彼は「二分法」、「三分法」、「五分法」を従来の「四分法」と混ぜて用いて、ハーモニクスの質感の差異を際立たせる楽器法を用いた。この楽器法は人気が高く、現在でも最も若手が模倣する楽器法の一つとなっている。この時期の彼の発案による「スパッツォラーレ」は弓を上下にではなく左右に奏し、さまざまな高次倍音を瞬時に沸きあがらせる技法として、「最もシャリーノらしい」特殊奏法と呼ばれる。「六つの奇想曲(1976)」はこれらの楽器法がすべて出現するヴァイオリンソロ作品で、現在でもヴァイオリニストに人気の高い作品だが、演奏は至難である。
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=== 第二期(1980 - 1991) ===
[[新ロマン主義]]が流行すると、早速彼はソプラノ、チェロ、ピアノの為の「ヴァニタス(1981)」でストレートな三和音、半音階進行、グリッサンドなどを投入した。既に「アナモルフォジ(1980)」の時点で[[ラヴェル]]の作品を引用していたが、彼は調性的な音色の使用を短所とみなさず、むしろ新たな未聴感としてとらえた。「ソナタ第1番」ではショパンのノクターンの第2番、「ソナタ第2番」ではラヴェルの「[[夜のガスパール]]」の音型を全曲に渡って埋め尽くし、反復の乱用によって聴き手を一種の飽和状態に陥れる。「夜に、、、」ではラヴェルの前述の作品のストレートな引用だが、「ソナタ第2番」ではイディオムのみの抽出であるため、引用元がわかりにくい、というのも彼の得意とした作曲技法である。
 
80年代はフルートを中心に様々な特殊奏法が生まれた。「用いられていない運指を使って擬似トレモロ」、「舌をマウスピースに叩きつけるタングラムでパルス」、「ホイッスルトーンをアンブシュアの位置によって音色成分を変える」など、従来のフルート音楽の常識を様々に塗り替えた。現在ではシャリーノのオリジナルがフルート音楽の常識として捉えられるまでに至っている。シャリーノは飽きることなくフルートに拘り続けており、2012年以降も新作を生み出す意向があるらしい。作品リストに編曲が増えだすのはこの頃からである。
 
この時期に書かれたピアノのための「ソナタ第3番」では、無限ループ状にした素材から感覚的に部分を抜き取るなどのユニークな構成法が光っている。しかし、[[ルイジ・ノーノ]]の死はシャリーノに大きな打撃を与え、この時期以降厭世的な音楽を多作するようになった。1991年に[[パドヴァ大学]]の[[コンピューター]]を駆使して作曲し、[[シュトゥットガルト]]で初演された[[オペラ]]「ペルセウスとアンドロメダ」は[[伴奏]]の[[オーケストラ]]がなくコンピューターだけで伴奏するが、歌手と合わせるために[[指揮者]]は存在する。電子楽器を用いたこれは非常に例外的なケースであり、シャリーノはほとんど生楽器で真価を発揮する作曲家である。
 
=== 第三期(1992 - 2004) ===
[[新ロマン主義音楽|新ロマン主義]]の流行が終わると、彼もそれを察知して「聞きにくい音響」に鞍替えした。「雲に捧げられた作品の間に」では「指がキーから離れる音」まで追求され、特殊奏法のマニエリスムからの脱却を図ろうとしている。編曲作品もついに「バッハ作曲(?)トッカータとフーガ」をフルートソロのために書き下ろすなど、サービス精神が目立ってくるのはこの時期からである。それは、彼の作品の音源化がCD時代になって容易になったこと、世界中から彼の元に教えを請う若手作曲家が出たことなど、彼も既に巨匠になっていたこと、などが挙げられよう。住まいを既に「チッタ・ディ・カステロ」に移していた彼は、[[ルチア・ロンケッティ]]、[[フランチェスコ・フィリディ]]、[[権代敦彦]]などの俊英を、この地で行ったマスタークラスで次々と発掘した
 
「ソナタ第4番」は90年代に書かれた最も個性的な作品の一つであり、「[[トーン・クラスター]]」と「擬似アルペジョ」の二つの組み合わせのみで全曲が構成される特異なピアノ曲である。「音楽とは思えない素材」に対する固執はこの時期から強まり、「単一の楽器は特定の素材しか演奏しない」傾向が加速化する。「夜想曲」では沈黙の中を「擬似アルペジョ」がふらふらと舞うのみであり、痺れを切らして憤慨した聴衆の咳がCDに収録されている。この作品は同一コンセプトで現在までに6曲書かれており、場合によっては19世紀的なオクターブも使われている。演奏は至難である。
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=== 第四期(2005 - ) ===
作風にほとんど変化はない。一つの試みが成功すると、すぐその路線で多作する傾向はそのままであり、彼のオーケストラ個展では「全く同じ音が」、「全く同じタイミングで」、「全く同じシチュエーションを共有する」作品が並ぶことすらある。「電話の考古学(2005)」では話し中のブザーから携帯電話NOKIAの着信メロディーまで模倣するものの、構成感は年を経るにつれ散漫化或いはモザイク化へ向かっており、最近では華美さを避け、曖昧模糊とした音響を薄く延ばす楽器法に傾斜してきている。リコーディストの[[鈴木俊哉]]や[[イェレミアス・シュヴァルツァー]]の名演奏にも触れ、シャリーノは[[リコーダー]]にも開眼する結果となった。その代表が「四つのアダジオ」である。
 
[[和泉式部]]の原作に基づくオペラ「ダ ゲロ ア ゲロ(2006)」や[[ヴァイオリン協奏曲]]「人工[[四季]](2006)」では人声を模した[[グリッサンド]]が頻出するが、沈黙に近い瞬間は徐々に減じている。「旅のノート(2003)」ではクラシカルなメロディがそのままバリトンによって担われており、ここでも沈黙は減少している。ドナウエッシンゲン音楽祭2009のために「声による夜想曲の書(2009)」を出品するが、作品の評価は分かれた。その理由として「サンダーシート、チューブラーベル、大太鼓」を全く同じ組み合わせで使うが、この楽器法は数十作で使いまわされている。
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== エピソード ==
*[[マウリツィオ・ポリーニ]]によって初演された「ソナタ第5番」はあまりのコーダの演奏困難さ故に「コーダを書き換える」処置に追われ、これが元でポリーニとの縁がこじれ二度とポリーニはシャリーノ作品を手がけなくなった。ポリーニのためのピアノ協奏曲(「薄暗いレチタティーボ」)も一曲書き下ろしたものの、以後はイギリスのピアニストの[[ニコラス・ハッジス]]へピアノ独奏作品の紹介を全面的に託すことした。今でも拘るフルートり、ピアノは開発を終えたという印象があらしい
*「サックスのキークラップは『ほとんど聞こえないから100台持ってこい』」と言って、世界ではじめての100台のサックスでキークラップを行う作品を作曲した。
*2008年に入って作曲されたリコーダーとオーケストラのための「四つのアダジオ(2008)」では、初演直後に拍手とブラヴォーと圧倒的多数のブーイングが乱れ飛んだ。休憩時間にシャリーノは放送局のブースに入り、「大変に、騒がしい初演となりました」というアナウンサーに対して、「30年前もこんな感じだったけれど、あの時は客が本気で殴りかかったんです」などと応答している。
*リコルディ時代は英訳や独訳も受容に応じて付されていたが、RAI TRADE時代はそのような配慮は行われておらず、全文がイタリア語で書かれている。
*自作の管理に驚くほど厳しい。パウル・ザッヒャー財団は再三にわたり自筆譜の管理を高額な費用で申し出たが、シャリーノは全て断わった。
 
==参考文献==