「ミハイル・ロマノフ」の版間の差分

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== 治世 ==
[[Image:Vocation_of_Mikhail_Romanov_(Grigoriy_Ugryumov).jpg|thumb|left|<center>イパチェフ修道院のミハイル]]
父が[[ボリス・ゴドゥノフ]]に失脚させられ、母と共に[[コストロマ]]のイパチェフ修道院に隠棲していた。1610年[[ヴァシーリー4世]]の退位後、ロシアではツァーリ不在の[[動乱時代]]における[空位期間」に陥ったが、1612年国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻した。その後、1613年2月、人民、[[コサック]]も参加した[[ゼムスキー・ソボル|全国会議]]にてミハイルはツァーリに選出され、これにより動乱時代は終結した。選出には、[[フョードル1世]]の母[[アナスタシア・ロマノヴナ|アナスタシア]]を大伯母に持つ[[リューリク朝]]の姻戚であること、また16歳の少年のため[[動乱時代]]以降、モスクワの国土の多くを占領する隣国[[ポーランド=リトアニア共和国|ポーランド]]や[[スウェーデン]]と結んだ「汚い過去」が無いことなどが有利に働いた。

しかし、スウェーデンおよびポーランドとの戦いは、1617年に前者と、翌1618年に後者との休戦が成立したが、モスクワ側は領土的譲歩を余儀なくされた。またポーランドとの休戦は期限付きで、再び戦争に入るのは明らかだった。
 
ミハイルは即位後の6年間を貴族会議および全国会議との合議体制で国政に臨んだ。これは伝統的な[[専制政治]]を制約するものでなく、ツァーリの経験不足と難題の山積を解決するためだったらしい。ポーランドとの休戦によって、1619年にミハイルの父フィラレートが帰国し、モスクワ総主教となった。さらに「大君」の称号を得てツァーリと同格の扱いを受け、息子を抑えて実質的な統治者となった。フィラレートは全国会議を嫌って開く機会を減らすように努めたが、これは専制政治によって秩序が回復出来るという考えに基づいていた。フィラレート時代(1619‐1633)は国家再建に力が注がれた。富豪[[ストローガノフ家]]の財政援助を仰ぎつつ、中央集権政策や土地・人口調査を進めたが、成果は芳しくなかった。逃亡農民の数を抑えるための対策もなされ、[[農奴制]]への移行が顕著になった。経済復興のため対外貿易も再開され、商人に特権を与えて西欧との交易を奨励した。また近づく対ポーランド戦争のため、西欧式の新型軍隊を育成しこれに備えた。