「有栖川宮記念公園」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Harani0403 (会話 | 投稿記録)
Harani0403 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
6行目:
==概要==
[[画像:Prince_taruhito_bronze.jpg|180px|right|thumb|園内の熾仁親王銅像]]
有栖川宮記念公園は、[[都心]]には稀な閑雅な地であり<ref name="eetokyo"/>、園内は起伏に富み、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっている。公園の西端にあって[[外苑西通り]]や[[広尾駅]]方面からの入口になる『有栖川公園前』[[交差点]]付近が最も標高が低く、そこから右手には[[南部坂]]、左には木下坂といういずれも急坂が公園に沿って上っている。
 
[[丘陵]]より[[渓谷]]を下って池畔に至る地形やそこに茂る樹木は、日本古来の林泉式の修景による高雅な自然趣味の庭園を呈する<ref name="eetokyo"/>。また、園内には[[梅]]や[[睡蓮]]、はなみずきなどを初めとする四季おりおりの花も多く、秋には[[楓]]や[[もみじ]]の紅葉も楽しめる<ref name="eetokyo"/>。
公園内には木が多く茂り、湧水が渓流となって西南側の池に注いでいる。南東側の[[ドイツ]]大使館に面した広場には、騎馬像の名作として知られる「[[有栖川宮熾仁親王]]銅像」<ref>この銅像は[[1895年]](明治28年)に建立されたもので、はじめは[[皇居]]桜田濠沿い(現在の[[憲政記念館]]の付近)にあった[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の庭に設置された。その後、[[1962年]](昭和37年)に現在の場所に移された。</ref>をはじめ、「笛吹き少年の像」、「新聞少年の像」がある。東側の高台には[[東京都立中央図書館]]も併設されている。
 
公園内には木が多く茂り、湧水が渓流となって西南側の池に注いでいる。南東側の[[ドイツ]]大使館に面した広場には、騎馬像の名作として知られる「[[有栖川宮熾仁親王]]銅像」<ref>この銅像は[[1895年]](明治28年)に建立されたもので、はじめは[[皇居]]桜田濠沿い(現在の[[憲政記念館]]の付近)にあった[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の庭に設置された。その後、[[1962年]](昭和37年)に現在の場所に移された。</ref>をはじめ、「笛吹き少年の像」、「新聞少年の像」がある。東側の高台には[[東京都立中央図書館]]も併設されている。
 
所在地は[[広尾 (渋谷区)|広尾]]地区に隣接し、最寄り駅も[[広尾駅]]である。
15 ⟶ 17行目:
[[江戸時代]]には[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]]下屋敷であった。 [[1896年]](明治29年)に[[有栖川宮威仁親王]]が[[霞ヶ関]]の御殿から移動する運びとなり代替地として御用地となり、威仁親王の生母([[有栖川宮幟仁親王]]の[[側室]])・森則子の住居等が設けられた。御用地は[[有栖川宮|有栖川家]]が断絶すると、{{jdate|1913}}には同家の祭祀を引き継いだ[[高松宮]]に継承され、高松宮御用地となった。
 
[[児童]]の健康や[[自然]]に格別の関心を持たれていた高松宮は[[1934年]](昭和9年)1月5日、故有栖川宮の[[命日]]にちなんで御用地約11,000[[坪]](36,325平米)を公園地として[[東京市]]に下賜された<ref name="eetokyo">[http://www.ee-tokyo.com/teien-2/arisugawa/arisugawamiya.htmll 有栖川宮記念公園の由来と特色(港区による解説)] いい東京ee-tokyo.com 平成24年7月18日閲覧</ref>。東京市は直ちに整備工事を開始、公園は有栖川宮記念公園と命名されて同年11月に開園・開放された<ref name="eetokyo"/>。
 
{{jdate|1973}}4月1日、有栖川宮熾仁親王の[[銅像]]から北東部の一帯、[[東京都立中央図書館]]や港区立麻布運動場等が位置する31,235平米が公園に編入された<ref name="eetokyo"/>。その後、[[1975年]](昭和50年)には東京都から港区に移管されて区立公園となった。