「アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公)」の版間の差分

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[[1260年]][[9月]]に[[ハーメルン]]や[[アエルツェン]]を中心に勢力を持っていた[[エーファーシュタイン家|エーファーシュタイン]]伯家の[[コンラート4世 (エーファーシュタイン家)|コンラート4世]]を討伐し、各城を攻略してその影響力を徐々に弱めた。
 
[[1267年]]、ヨハンが所領分割を要求、アルブレヒト1世は1269年にこれを受け入れ、ヨハンは北部の[[リューネブルク]]と[[ツェレ]]と[[ハノーファー]]を、アルブレヒト1世は南部の[[グルーベンハーゲン]]、[[カレンベルク]]、[[ヴォルフェンビュッテル]]、[[ヘルムシュタット]]、[[ハルツ山地]]、[[ゲッティンゲン]]を領有する事になった。
 
1279年死去。遺体はブラウンシュヴァイク大聖堂に埋葬、領土は3人の息子の共同統治となった。