削除された内容 追加された内容
MerlIwBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: ky:Энесайлык кыргыздар
編集の要約なし
8行目:
==歴史==
===漢代===
[[中国]]では[[項羽]]と[[劉邦]]が互いに抗争を繰り広げていた時代、[[匈奴]]の[[冒頓単于|冒頓]]は父を殺して[[単于]]の座に就くと、当時の強国であった東の[[東胡]]を滅ぼし、西の[[月氏]]を駆逐し、さらに南([[オルドス地方]])の楼煩王と白羊河南王を併合し、中国にも侵入した。こうしてそれまでは小国にすぎなかった匈奴が[[モンゴル高原]]を統一して覇を唱えると、その北([[バイカル湖]]周辺)に住んでいた渾庾,屈射,[[丁零]],'''鬲昆''',薪犁といった諸族もまもなく匈奴に服属した。<ref>『史記』匈奴列伝</ref>
 
[[黄龍 (漢)|黄龍]]元年([[紀元前49年|前49年]])頃、匈奴の[[シツ支単于|&#x90c5;支単于]](在位:[[紀元前56年]] - [[紀元前36年]])は弟の[[呼韓邪単于]](在位:[[紀元前58年]] - [[紀元前31年]])と対立していたが、[[前漢|漢]]と組んでいた呼韓邪単于の方が優勢だったので、西の[[烏孫]]に協力を求めた。しかし、烏孫の小昆弥(烏孫の君主号)である烏就屠(うしゅうと)も漢側についたので、&#x90c5;支単于は烏孫を撃破し、これに乗じて北の[[烏掲]]を撃って降し、その兵を使ってさらに西の堅昆を破り、さらに北の[[丁令]]をも降して烏掲,'''堅昆''',丁令の三国を併合した。その後も何度か烏孫に兵を派遣して勝利し続けたので、&#x90c5;支単于は堅昆の地に都を遷した。<ref>『漢書』匈奴伝</ref>
 
===三国時代===
18行目:
 
===突厥時代===
[[突厥]]が[[柔然]]可汗国を滅ぼして可汗国となると、第3代の[[木杆可汗]](在位:[[553年]] - [[572年]])は西の&#x56d0;噠([[エフタル]])を破り、東の[[契丹]](キタイ)を敗走させ、北の'''契骨'''を併合し、中央ユーラシアを支配することとなった。<ref>『周書』列伝第四十二 異域伝下</ref>
 
その後は突厥の盛衰に応じて服属と離反を繰り返していたが、[[車鼻可汗]](在位:? - [[650年]])が現れると'''結骨'''は歌羅禄([[カルルク]])とともにふたたび突厥に附いた。<ref>『旧唐書』列伝第一百四十四上 突厥上、『新唐書』列伝一百四十上 突厥上</ref>
 
===唐代===
31行目:
[[乾元 (唐)|乾元]]年間([[758年]] - [[760年]])、堅昆は回紇([[ウイグル]])部に破られたので、これより中国と交通できなくなった。後に狄語([[テュルク語]])が訛って'''黠戛斯'''(かつかつし)となるが、おそらく[[回鶻]](ウイグル可汗国)によるものだと思われる。若くは黄赤面といい、また訛って'''戛戛斯'''となる。黠戛斯は常に大食(タージ:[[イスラーム帝国]]),[[吐蕃]],葛禄([[カルルク]])と互いに頼り合い、吐蕃の往来者にいたっては回鶻の略奪を畏れたため、必ず葛禄に住み、黠戛斯の護送を待っていた。一方で回鶻は黠戛斯の君長である阿熱(あぜつ:黠戛斯の君主号)に官を授けて'''毘伽頓頡斤'''(ビルゲ・トン・イルキン)とした。
 
<ref>『新唐書』列伝第一百四十二下 回鶻下</ref>
===回鶻を滅ぼし可汗国となる===
回鶻可汗国が衰えると、阿熱はすぐさま可汗(カガン)を称した。その母は突騎施([[テュルギシュ]])の娘で母可敦(皇太后)となる。妻は葛禄葉護(カルルク・ヤブグ:カルルクの君主)の娘で可敦(カトゥン:皇后)となる。
40 ⟶ 41行目:
大中2年([[848年]])春、回鶻の[[遏捻可汗]]のもとには名王貴臣の500人しかいなくなったため、彼らは[[室韋]]に依ることにした。しかし、[[張仲武]]が遏捻可汗らを捕えるべく黠戛斯などを室韋に向かわせたため、遏捻可汗は懼れて妻の葛禄(カルルク)と子の特勤毒斯ら9騎だけを連れて夜に西へ逃亡し、行方をくらました。室韋は回鶻の余衆を分けて七分とし、七姓室韋は各一分を占領した。そこへ黠戛斯宰相の阿播が領する諸蕃兵7万が遏捻可汗および諸回鶻人を捕えるべく室韋に攻め込んできた。室韋は阿播の軍に大敗し、回鶻人ともども黠戛斯の略奪を受けた。
 
<ref>『新唐書』列伝第一百四十二下 回鶻下</ref>
===モンゴル帝国の支配===
[[ファイル:Map of 13c Mongolia.png|thumb|350px|13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。]]
[[1207年]]、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の[[チンギス・カン]]は2人の官吏を派遣し、キルギズ族の王<ref>この頃、キルギズやケム・ケムジュートなどの君主は'''イナール'''という称号を帯びていた。</ref>とケム・ケムジュート<ref>『モンゴル帝国史』によると、ケム・ケムジュートは国名や族名ではなく、地方名であるとされる。</ref>の王のもとに赴かせ、臣従するように説かせた。両国の君主はモンゴルのカンに臣従を誓い、貢物として白眼の大鷹([[ハヤブサ]])を贈った。<ref>ドーソン 1968,p90</ref>
 
[[1217年]]<ref>『[[元朝秘史]]』では1207年としている。</ref>、[[トゥマト]]族がモンゴル帝国に対して反旗を翻したため、チンギス・カンはその隣族であるキルギズ族に出兵要求をした。しかし、キルギズがそれを断ったため、チンギス・カンは長子の[[ジョチ]]にキルギズ討伐を命じた。ジョチは氷結したケム・ケムジュート河([[イルティシュ川]]上流の一支流)を渡り、キルギズ族を服従させて帰還した。<ref>ドーソン 1968,p134</ref>
 
===叛乱者の退却地===
後継争いの末、モンゴル第4代皇帝(カアン)となった[[モンケ]](在位:[[1251年]] - [[1259年]])は[[1252年]]、オゴデイ家とチャガタイ家の反対派に対して大規模な粛清をおこなった。この時、モンケの軍隊はキルギズ,ケム・ケムジュートの地にも派遣された。<ref>ドーソン 1968,p290</ref>
 
モンケの死後、その末弟である[[アリクブケ]]と次弟である[[クビライ]]との間で後継争いが起きた([[モンゴル帝国帝位継承戦争]])。クビライに敗れたアリクブケは自らの冬営地であるキルギズの地に退却した。<ref>ドーソン 1971,p13</ref>
 
[[1277年]]、トク・テムル<ref>『[[集史]]』クビライ・カン紀ではクビライの弟であるスクトゥの子とされている。『[[元史]]』世系表では、[[トゥルイ]]の第10子に歳哥都(ソゲドゥ)という人物がおり、その孫にトク・テムルがいる。[[元朝]]第12代皇帝[[トク・テムル]]とは別人。</ref>は[[シリギ]]と共謀し、クビライに対して反旗を翻した。クビライは討伐軍司令官に[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]を任命し、オルホン河畔にて反乱軍を破った。敗れたシリギはイルティシュ川方面へ退却し、トク・テムルはキルギズの地へ退却した。<ref>ドーソン 1971,p110-111</ref>
 
==習俗==
78 ⟶ 80行目:
[[回鶻|回鶻可汗国]]が衰退すると、黠戛斯の阿熱は可汗(カガン)号を採用し、妻の称号も可敦(カトゥン)とした。
 
[[モンゴル帝国]]時代になると、キルギズの君主は“イナール”という称号を帯びていた。イナール号はコリ,バルグ,トゥマト,バイルク(バイアウト)の諸族でも使用されており、さらにこの地方の一部であるジェニン・アン・ビディとビディ・ウラン(ビディ・アフルン、エディ・オルン)ではウルース・イナールなどの君主号を使用した<ref>'''ウルース・イナール'''はビディ・ウランの君主号であり、ジェニン・アン・ビディの君主号は写本の欠落により不明。</ref>。<ref>ドーソン 1968,p91</ref>
 
===文字・言語===