「山科勝成」の版間の差分

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この人物に関しては、その生涯の謎も究明されておらず、また、実在の確証すらも疑わしい部分も考えられ、故に今後の更なる研究が待たれる、という点に留意して頂きたい。
 
* 蒲生氏郷の家臣の中に、イタリア人のロルテスこと山科勝成なる人物が存在したとされる根拠であるが、これは蒲生氏郷の後孫の家に伝えられたといわれる『'''御祐筆日記抄略'''』と題する写本の中にみられる、とされている。『御祐筆日記』については、{{和暦|[[1904}}10年]](明治37年)10月発行の雑誌『[[太陽 (博文館)|太陽]]』において[[渡辺修二郎]]が「蒲生氏郷羅馬遣使説の出處」と題する論文で紹介された。論文中では、蒲生氏郷がローマに使いを遣わしたということが、『'''外交志稿'''』(外務省)および『'''世界に於ける日本人'''』(渡辺修二郎自著)で記されているとされ、内外の歴史研究者の注意が惹起された。そこで、各方面の手により帝国大学史料編纂掛においてこれに関連する史料が探されたが、結局、得られず、その段階においては「蒲生氏郷ローマ遣使説」には根拠がない、と断定された。これに対し渡辺は、蒲生家(氏郷の子孫の家)から『御祐筆日記』を発見し、これが『外交志』などで材料となった『蒲生家記』の原書となるものである、と主張した。
 
* [[岩辺晃三]]は、イタリア人ロルテスについて、1904年(明治37年)に、渡辺修二郎によって発見された『'''御祐筆日記'''』の中にその名の存在が確認されている、とする。この『御祐筆日記』は、{{和暦|[[1642}}年]](寛永19年)に大野五左衛門によって執筆されたものである。
:「({{和暦|[[1577}})10年]](天正5年))10月5日、外池勘右衛門出頭し、或る方より添書を得て、'''羅馬国の人ロルテス'''と申者参り、'''御召抱を願ひ候'''、此者は'''外国の武士'''にて、兵法、天文、地理の諸学は各其奥機(義?)を極め、[[張良]] [[孔明]]をも凌ぐべきものの由言上すれば、氏郷卿其書面をも御覧ありて、老臣の面々に御詮議あるべしとて、同9日老臣を召し集めて仰せられけるは、今度或る方より添書を以て参りし羅馬国の武士にて、ロルテスと云うものあり、其者は彼国の武士にて、兵法、天法(文?)地理等の諸学は一として極めずと云う事なし、召抱へ置かば然らんと思ふなり、'''唯日本人と違ひ、他国の者なれば如何あるべきや、各心底を隠さず評議あるべし'''と、氏郷卿仰せあれば''………〔中略〕………''能く其人となりを御覧ありて後、御用ひ在らせられ候へば然るべしとの論に一決し、終に御扶持を被下。斯くてロルテス大砲小銃其他種々の武器を作り、'''山科羅久呂左衛門勝成'''と改名せり。」(『御祐筆日記』の原文より引用)
 
== 参考文献 ==