削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
7行目:
 
元治元年6月の[[池田屋事件]]の時は諸士調役兼監察として[[島田魁]]らと長州藩士や[[尊攘]]過激派の探索にあたり、尊攘過激派の一人、[[古高俊太郎]]宅・枡屋を突き止めている。枡屋は[[宮部鼎蔵]]ら大物志士の密会所となっており、宮部の下僕・忠蔵を尾行し所在を突き止めたとされる。その結果、新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去りの計画を未然に防ぐ事に成功した。しかし、この武功に対して、各隊士たちが報酬を受けているにも関わらず、山崎の名前が書かれていないため、小説家の[[子母沢寛]]や[[司馬遼太郎]]の創作との説もある(ただし、報酬を受けている島田魁の日記には探索したメンバーに山崎の名前が入っている)。
 
一説では池田屋事件と近い時期に入隊したとされている篠塚岸三という者が池田屋に参加後、一ヶ月後位に江戸にいる母が死んだ、または死病にかかったというような理由で除隊されている。報酬金名簿には山崎の名前はないが篠塚の名前は書かれている。山崎は監察という仕事の都合上、変装のためや隊士の中の間者を詮索するために偽名を使うことは少なくない。そのことから、篠塚という男は山崎なのではないかというものもある。だからなのか島田魁や永倉新八の本には篠塚という男の名前ではなく、山崎の名が書かれている。
 
その後、[[禁門の変]]や[[第一次長州征討]]、[[第二次長州征討]]などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、[[近藤勇]]や[[会津藩]]に正確な情報をもたらした。