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[[1970年代]]後半、[[ハーフィズ・アル=アサド]]大統領の独裁や[[アラウィー派]]優遇が強まる中、[[ムスリム同胞団]]など不満を持つ[[イスラム原理主義]]勢力は都市ゲリラ活動を行い、兵士を殺害したり都市で自動車爆弾を爆発させるなどしていた。アサド政権が[[レバノン内戦]]に深入りし、一方で[[トルコ軍]]が[[クルド人]]との内戦でシリア国境に移動することにアサドが気を取られているすきにムスリム同胞団は活動を活発化させ、ついには[[1982年]]2月、保守的な[[スンニ派]]の多いハマーでムスリム同胞団が決起しハマーを「解放区」とした。
 
[[2月2日]]、大統領の弟リファート・アル=アサドに率いられたシリア軍は35万人の市民のいるハマーを包囲し降伏を勧告した後に砲撃を開始した。爆撃機が市街を空爆し、破壊された狭い通りに戦車が突入して数週間にわたり戦闘を行ったが、この際に戦闘員以外に逃げ惑う市民多数が巻き込まれ、2万人以上の死者(3万から4万に上ると見る推計もある)が出る惨事となった。犠牲者のほとんどは女性や子供だった。また同胞団メンバーとその支持者と見られた市民多数が連行され拷問・処刑された({{仮リンク|ハマーの大虐殺|en|Hama massacre}})<ref>末近浩太『現代シリアの国家変容とイスラーム』ナカニシヤ出版, 2005年.</ref>。
 
この戦闘で古都の旧市街は壊滅し、アル=アザム宮殿を含む古い邸宅やモスク、遺跡の多くは破壊された。同胞団メンバーの多くはヨルダン、イギリス、西ドイツへ亡命し、シリアにおける同胞団の活動は沈静化する一方、打撃を受けたハマーは経済的に立ち直れなかった。破壊された後のハマーからは旧住民が海外などに逃げ、代わって周囲の農村からの新住民が多数を占めるようになった。