「穴太廃寺」の版間の差分

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== 概要 ==
穴太は[[大津宮]]に近く、古くから古代の瓦が出土することが知られていたが、{{和暦|[[1973}}年]](昭和48年)に寺院遺構の一部が見つかったのをきっかけに注目され、{{和暦|[[1984}}年]](昭和59年)に大規模調査が実施された。その結果、建立時期と伽藍配置がやや異なる新旧2つの[[伽藍]]跡が重なって検出された。第一次伽藍は詳細は不明ながら、西に[[金堂]]・東に[[仏塔|塔]]を配しこれを[[回廊]]で囲んだ川原寺式または法起寺式伽藍配置と推定される。第二次伽藍は西に金堂・東に塔・北に[[講堂]]を配した法起寺式伽藍配置である。第一次伽藍は中軸線がやや北東に振れるのに対して、第二次伽藍はほぼ南北方向の中軸線に沿って配置されている。両方の伽藍遺構の状況から、創建伽藍が火災等で失われて再建されたのではなく、何らかの事情で移築・改装されたものとみられている。出土した瓦に刻まれた[[干支]]「[[庚寅]]」「[[壬辰]]」をそれぞれ{{和暦|[[630}}年]]{{和暦|[[632}}年]]と解して、[[舒明天皇]]の時代([[630年代]])に建立され、大津宮造営に伴って新しい都に相応しいように改築されたという説が唱えられている。また、遺構の状況から[[平安時代]]までは存続していたと考えられている。
 
== 参考文献 ==