「イラク・セルジューク朝」の版間の差分

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このような内紛続きのために、イラクの政情・治安は全く安定せず、国内では[[1127年]]に従属下にあった[[ザンギー朝]]が自立し、また[[マズヤド朝]]も勢力を拡大した。さらに[[アッバース朝]][[カリフ]]も策動し、[[1152年]]にマスウードが死去すると弟の[[スライマーン・シャー]]、息子の[[ムハンマド2世 (イラク・セルジューク朝)|ムハンマド2世]]と[[マリク・シャー3世]]らによる三つ巴の争いが開始された。これに乗じてアッバース朝はイラク・セルジューク朝のスルタン領と宮殿の没収を宣言し、さらには[[バグダード]]からシフナ職を追放するに至った。[[1153年]]に宗主のアフマドが捕虜となり、[[1157年]]には死去して大セルジューク朝が断絶すると、イラクの政情はさらに混乱した。[[1160年]][[3月]]までにマリク・シャー3世とムハンマド2世は相次いで死去し、叔父のスライマーン・シャーが即位して内紛は収束されたに見えたが、同年の10月にトゥグリル2世の遺児である[[アルスラーン・シャー]]を擁した[[マムルーク]]の[[イル・ドュグュズ]]によって廃され、アルスラーン・シャーが跡を継いだ。
 
アルスラーンの下で「大アタベグ」の称号を得たイル・ドュグュズは政権を握った。[[1175年]]にイル・ドュグュズが、[[1176年]]にアルスラーンが相次いで没すると、前者は長男の[[ジャハーン・パフラヴァーン]]が、後者は7歳の息子である[[トゥグリル3世]]が継いだ。[[1186年]]にジャハーン・パフラヴァーンが死去すると弟の[[クズル・アルスラン]]が跡を継いだが、彼はトゥグリル3世を傀儡にして露骨な干渉<ref>スルタンを投獄して自らスルタンに即位したりした</ref>を行なったため[[1191年]]に暗殺された。
 
以後はスルタンの権力が戻されたが、1194年3月にトゥグリル3世は[[ホラズム・シャー朝]]の[[テキシュ]]と[[ホラーサーン]]の支配権をめぐって争い、衆寡敵せず敗死してイラク・セルジューク朝は滅亡した。
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#[[アルスラーン・シャー]](1161年 - 1176年)
#[[トゥグリル3世]](1176年 - 1190年、復位1191年 - 1194年)
#*[[クズル・アルスラン]](1190年 - 1191年)
 
== 脚注 ==