「山崎丞」の版間の差分

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その後、[[禁門の変]]や[[第一次長州征討]]、[[第二次長州征討]]などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、[[近藤勇]]や[[会津藩]]に正確な情報をもたらした。
 
慶応4年(1868年)1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]の最中、重傷を負う。1月13日[[江戸]]へ撤退の際、[[富士山 (軍艦スループ)|富士山丸]]の船上で死去。[[紀伊国|紀州]]沖で[[水葬]]されたとされている。その際、近藤勇は自身も肩の鉄砲傷がひどく寝込んでいたが、別れを告げるべく正装し代表として追悼の言葉を読んだという。近藤は山崎を上述の通り、信用し可愛がっていたようで、涙を流し、[[土方歳三]]に「山崎は良い奴だった あいつはこんなに大勢の人に見送られて幸せだ」ともらし、船長に深く頭を下げて礼を言ったという。ただ船に同乗していたであろう[[永倉新八]]や島田魁らが残した手記では、船上での山崎の死や水葬に関して一切触れていない。一説には、鳥羽・伏見の戦いで銃で撃たれ死亡したともいわれ、陸上で埋葬された可能性もあるなど、その死ははっきりとせず謎に包まれている。
 
新選組隊士の[[山崎林五郎]](林新次郎)の従兄弟(義兄弟)で、林五郎の実家の家系図により、妻が居たとの話もあるが、そもそも林五郎と本当に血縁関係があったのかどうかも証明されておらず定かではない。子母澤寛の書物では[[林信太郎]]の従兄弟とされているが、おそらく林新次郎との混同と思われる(山崎烝水葬説を明治のずっと後になって林信太郎が語ったと記されているが、その頃彼は既に死去している)。また、山崎林五郎と山崎烝の父の名が同名にすぎず、他人との見解もある。