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彼の医学の才能はたちまちに開花して数年後には名医として湖北一帯に名を知られ、明の皇族である楚王までが彼を頼るようになった。そして李時珍34歳の時に明朝における医学の最高機関であった「太医院」に推薦を受けて[[北京]]に赴いたのである。だが、彼には中央の役人は性にあっていなかったらしく一年後には帰郷をして再び地元で医業を始める事となった。
 
中国の本草学は[[神農氏|神農]]が全ての薬草、毒草を食て作ったとされる(実際は[[後漢]]時代に編纂されたと考えられている)『[[神農本草経]]』を原典として、多くの増補が繰り返されてきた。だが、時代が下るにつれて名称や薬効についての誤りや重複、遺漏が多数含まれるようになっていった。李時珍はこれを憂慮して新しい本草学書の編纂を志したのである。<br>参考にした書物は800種、彼自身も多数の薬物の実物を収集して研究を重ねて26年の歳月を費やし、その間に3回の校訂を重ねて遂に61歳の時に『本草綱目』全52巻190万余字をもって完成させたのである。
 
だが、当時の医学・本草学の世界では、『本草綱目』が聖典視されていた『神農本草経』などの説や配列・構成に対しても訂正を加えた事などから李時珍に対して激しい糾弾が浴びせられる事となり、その出版は事実上閉ざされる事となった。だが、李時珍に理解を示す人たちの奔走で[[1593年]]に[[南京]]の出版業者・胡昇竜が出版に応じ、また時の皇帝[[万暦帝]]への献上の機会を得る事になった。だが、この直後に李時珍は病に倒れて急死してしまう。献上された『本草綱目』は万暦帝から賞賛されて、出版に便宜が図られる事になった。