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[[File:HIH Prince Kaya Kuninaga.jpg|thumb|少年時代の邦寿王]]
'''賀陽宮邦寿王'''(かやのみや くにながおう、[[1922年]]([[大正]]11年)[[4月21日]] - [[1986年]]([[昭和]]61年)[[4月16日]])は、[[日本]]の元[[皇族]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。最終階級は[[大尉|陸軍大尉]]。[[賀陽宮恒憲王]]の第1王子。
 
==生涯==
[[1941年]]7月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](55期)を卒業。陸軍少尉に任官する。大尉時代には[[早淵四郎]][[中将]]のもとで[[陸軍予備士官学校 (日本)|豊橋第一陸軍予備士官学校]]の教官を務め、精神訓話と戦術の講義を担当した。[[1942年]]4月、満20歳に達したため、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の皇族議員となる([[1946年]]5月まで)。[[1942年]]から南方を転戦。[[陸軍大尉]]として敗戦を迎える。
 
復員後、[[1946年]]に[[京都大学]][[経済学部]]に入学。大学在学中、[[1947年]][[10月14日]]、11宮家の[[皇籍離脱]]が行われ、'''賀陽邦寿'''となる。[[1950年]]に京都大学経済学部卒業。[[東京銀行]]や[[日本国土開発]]などへの勤務を経て、後に賀陽会(かようかい)を主宰、賀陽政治経済研究所を設立し、所長となった。また、[[第8回参議院議員通常選挙]]([[1968年]][[7月7日]]投票)に全国区から立候補したが落選した。[[大日本居合道連盟]]初代会長を務めた。<ref>[http://www.dainihoniaido.jp/federation/ 大日本居合道連盟 連盟について]、2012年8月4日閲覧。</ref>
 
== 血縁 ==
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*母:[[恒憲王妃敏子]]
*兄弟:'''邦寿王''' - [[美智子女王]] - [[治憲王]] - [[章憲王]] - [[文憲王]] - [[宗憲王]] - [[健憲王]]
*妻:初婚[[津雲龍子]]([[国会議員#衆議院議員|衆議院議員]][[津雲国利]]次女、のち離婚)、ほか合計3回離婚
*子:無し
 
== 逸話 ==
京都大学在学時、大工の娘で祇園の舞妓・南洋子と深い仲となり結婚を決意するが、両親の大反対と洋子が結核に冒されたことで頓挫す諦める。心配した両親が[[津雲龍子]]と強引に結婚させるが、邦寿は結婚に際し「洋子の病気が治ればすぐに離婚しよう。龍子には気の毒だが指一本触れまい」との決意で臨んでいた。結局洋子の死後も邦寿の気持ちが変わらなかったため結婚3年で離婚。[[津雲龍子]]は義母の[[賀陽敏子]]から「本当にすまなかったねぇ、あなたの半生を台無しにして。申し訳なさで言葉もないわ、どうぞ幸せな第二の人生をみつけてください」とのお詫びと励ましの言葉を受けて、龍子は処女のまま賀陽家を去った<ref>[[河原敏明]] 『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』 [[講談社]]、2004年、193-214頁</ref>。
 
皇籍離脱後、「石ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも」志貴皇子 巻8 1418 を揮毫し、この歌の石碑が春日宮天皇陵前に設置されている。
 
== 脚注 ==