「ルートヴィヒ・ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)」の版間の差分

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[[File:Ludwig Wilhelm Baden.jpg|thumb|200px|right|ルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]
[[File:Badischer Hofmaler 001.jpg|thumb|200px|トルコ人の服装をしたルートヴィヒ・ヴィルヘルム]]
'''ルートヴィヒ・ヴィルヘルム'''('''Ludwig Wilhelm''', [[1655年]][[4月8日]] - [[1707年]][[1月4日]])は、[[神聖ローマ帝国]]の[[領邦|領邦君主]]の1人で[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の軍人。[[バーデン (領邦)|バーデン=バーデン辺境伯]](在位:[[1677年]] - 1707年)。
 
== 生涯 ==
[[バーデン家]]のバーデン=バーデン辺境伯[[ヴィルヘルム (バーデン=バーデン辺境伯)|ヴィルヘルム]]の長男[[フェルディナント・マクシミリアン・フォン・バーデン=バーデン|フェルディナント・マクシミリアン]]と、妃[[ルイーザ・クリスティーナ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|ルイーザ・クリスティーナ]](カリニャーノ公[[トンマーゾ・フランチェスコ・ディ・サヴォイア|トンマーゾ]]の次女)の一人息子として[[パリ]]で生まれた。バーデン=バーデン辺境伯家は、[[ツェーリング家]]の[[カトリック教会|カトリック]]を信仰する傍系である。母方の従弟に、同じくオーストリア軍人であった[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]がいる。[[1669年]]、父が祖父に先立って死んだため、1677年の祖父の没後にバーデン=バーデン辺境伯位を継承した。
 
ルートヴィヒ・ヴィルヘルムは『トルコ人ルートヴィヒ』(Türkenludwig)、『帝国の盾』と呼ばれた。赤い上着が野戦でもよく目立つためトルコ人に『赤』と呼ばれていたからである。従兄のプリンツ・オイゲン同様、[[オスマン帝国]]の侵入に対するヨーロッパ側の防衛者であった。オイゲンと共に[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]で解放軍に加わり、[[ロレーヌ公]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]に従い[[大トルコ戦争]]に参加、[[1686年]]に[[ブダ]]を陥落、[[1688年]]にシャルル5世と[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が[[大同盟戦争]]で[[フランス王国|フランス]]に対抗するため[[ライン川]]に送られると[[神聖ローマ帝国]]軍の司令官となり、翌[[1689年]]には[[ハンガリー王国|ハンガリー]]において駐留軍の最高司令官となり、[[1691年]]の[[スランカメンの戦い]](現[[セルビア]]の地名)でオスマン帝国軍の侵攻時に勝利を挙げ、[[大宰相]][[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]を討ち取った。同年に大同盟戦争の[[ラインラント|ライン]]戦線に送られた。
 
オイゲンと共に[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]で解放軍に加わり、[[ロレーヌ公]][[シャルル5世 (ロレーヌ公)|シャルル5世]]に従い[[大トルコ戦争]]に参加、[[1686年]]に[[ブダ]]を陥落、[[1688年]]にシャルル5世と[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世]]が[[大同盟戦争]]で[[フランス王国|フランス]]に対抗するため[[ライン川]]に送られると神聖ローマ帝国軍の司令官となった。翌[[1689年]]には[[ハンガリー王国|ハンガリー]]において駐留軍の最高司令官となり、[[1691年]]の[[スランカメンの戦い]](現[[セルビア]]の地名)でオスマン帝国軍の侵攻時に勝利を挙げ、[[大宰相]][[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]を討ち取った。同年に大同盟戦争の[[ラインラント|ライン]]戦線に送られた。
[[スペイン継承戦争]]でも軍を指揮し、ライン川右岸の司令官に任命され、ストラスブールから[[シュトルホーフェン]]に及ぶ防衛線を築いてフランス軍に備えた。[[1702年]]9月に[[ランダウ]](現ドイツ・[[ラインラント=プファルツ州]]の都市)を占領したが、[[10月14日]]の[[フリートリンゲンの戦い]]で[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公]]率いるフランス軍に打ち破られた。翌[[1703年]]にシュトルホーフェンで[[カミーユ・ドスタン (タラール公)|タラール伯]]の軍に気を取られている隙にヴィラールが南に大きく迂回、ライン川を渡りマクシミリアン2世のバイエルン軍と合流して帝国の危機を招いた。
 
[[スペイン継承戦争]]でも軍を指揮し、ライン川右岸の司令官に任命され、ストラスブールから[[シュトルホーフェン]]に及ぶ防衛線を築いてフランス軍に備えた。[[1702年]]9月に[[ランダウ]](現ドイツ・[[ラインラント=プファルツ州]]の都市)を占領したが、[[10月14日]]の[[フリートリンゲンの戦い]]で[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール公]]率いるフランス軍に打ち破られた。翌[[1703年]]にシュトルホーフェンで[[カミーユ・ドスタン (タラール公)|タラール伯]]の軍に気を取られている隙にヴィラールの軍が南に大きく迂回、ライン川を渡りストラスブール対岸の[[ケール (都市)|ケール]]を奪われた([[ケール包囲戦 (1703年)|ケール包囲戦]])。更にヴィラールはケールから東進してマクシミリアン2世のバイエルン軍と合流して帝国の危機を招いた。
 
[[1704年]]、[[イングランド王国|イングランド]]軍総司令官の[[マールバラ公]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]からドイツへ長距離行軍を果たすとオイゲンと共に合流、ライン川はオイゲンに任せてマールバラ公と共に[[ドナウ川]]流域に進み[[シェレンベルクの戦い]]で[[ドナウヴェルト]]及び北のシェレンベルクを落とした。[[インゴルシュタット]]に向かったため[[ブレンハイムの戦い]]には参加出来なかったが、インゴルシュタットを落としフランス軍に奪われたランダウを包囲・再征服した。