「渡辺秀央」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
19行目:
 
== 概要 ==
[[新潟県]][[栃尾市]](現・[[長岡市]])出身。[[東京都立目黒高等学校]]、[[拓殖大学]][[政治経済学部|政経学部]]卒業。[[中曽根康弘]]の秘書を経て、{{和暦|[[1976}}年]](昭和51年)の[[第34回衆議院議員総選挙]]に、[[新潟県第3区 (中選挙区)|旧・新潟県第3区]]から出馬し初当選。[[内閣官房副長官]]、[[郵政大臣]]などを歴任。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]時代は中曽根、[[藤波孝生]]の側近だった。
 
{{和暦|[[1993}}年]](平成5年)の総選挙では、落選。{{和暦|[[1996}}年]](平成8年)の選挙には無所属で出馬するも、再び落選。その後、自民党を離党し、翌{{和暦|[[1997}}年]](平成9年)に[[新進党]]入党した。
 
{{和暦|[[1998}}年]](平成10年)、[[第18回参議院議員通常選挙]]に[[自由党_(日本_1998-2003)|自由党]]公認で出馬し、比例名簿4位ながらも当選、参議院議員に鞍替えした。自由党では[[小沢一郎]]の側近として選挙対策・[[民主党_(日本 1998-)|民主党]]との合流問題に取り組む。また、[[民由合併]]のモデルとも言われる[[新潟方式]]にも参画している。
 
新潟県では保守層にも一定の影響力があり、[[第44回衆議院議員総選挙|第44回総選挙]]においても県内における自民党の躍進を食い止めている(6選挙区中、小選挙区4・比例1)。第16回統一自治体選挙前半戦([[2007年]]4月8日投票)の新潟県議会議員選挙において、息子である渡辺祐介が[[見附市]]から出馬したが、落選した。
 
=== 反小沢の筆頭 ===
民由合併による自由党の疑惑ともされる資産整理を小沢と幹事長であった[[藤井裕久]]が中心で行い、党選挙対策委員長であった渡辺は関与できなかった。さらに{{和暦|[[2004}}年]](平成16年)の参院選では、小沢の支援を受けられず、後援会主体の選挙で最下位当選という屈辱を味わったため、以降は小沢と一定の距離を置いていると言われる。
 
{{和暦|[[2007}}年]](平成19年)[[5月14日]]の参議院本会議で、[[国民投票法案]]の[[与党]]案採決(ボタン投票)に際し、党議拘束に造反、賛成にまわる。翌日党として[[郡司彰]]参院国対委員長から、厳重注意処分が下された。
 
{{和暦|[[2007}}年]](平成19年)[[7月29日]] に投開票が行われた第21回参議院選挙で、渡辺は新潟選挙区において自由党出身の[[森裕子]]ではなく[[黒岩宇洋]]を支援した。「'''全身全霊(政治生命)をかけて支援する'''」と明言したが結果は小沢や田中真紀子の支援を得た森は当選したものの、黒岩は落選した。
 
この結果、渡辺の党内における求心力は急速に低下し、参院選後に反小沢のグループを集結し自民党と連携する構想は頓挫したと言われる(渡辺自身は選挙後、「離党するとは一言も言っていない」と構想そのものを否定した)。
 
{{和暦|[[2008}}年]](平成20年)[[4月9日]]の日本銀行副総裁[[国会同意人事|人事]]でも党方針に反して大江と共に政府提案に賛成票を投じた。しかし、自由党と[[保守新党|保守党]]との分裂時に自由党に残ったこと、民由合併の際に民主党への合流に躊躇する[[西村眞悟]]や[[藤島正之]]を説得していることや、新潟における[[社会民主党 (日本 1996-)|社民]]・[[日本労働組合総連合会|連合]]との連携を強化していることから、他の政策対応から保守的とは分類できるものの必ずしも親自民とは言えなかった。
 
=== 改革クラブから新党改革へ===
{{和暦|[[2008}}年]](平成20年)[[8月28日]]に民主党を離党すると発表。改革クラブを結成、代表就任。{{和暦|[[2010}}年]](平成22年)[[4月23日]]に改革クラブは党名を[[新党改革]]に変更し、自身は最高顧問に就任した。{{和暦|[[2010}}7年]](平成22年)7月の[[第22回参議院議員通常選挙]]ヘは出馬せず、事実上、政界引退とみられる。
 
=== 現在 ===
{{和暦|[[2010}}年]](平成22年)秋の叙勲において[[旭日大綬章]]を受章。
{{和暦|[[2012}}3年]](平成24年)3月、日本ミャンマー協会の会長に就任。
 
== 関連項目 ==