「玉椿憲太郎」の版間の差分

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雷部屋の弟子をひきとったこと
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知人を通して[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ノ谷]]に紹介してもらって[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)|雷]]に入門し[[明治30年]]1月初土俵。四股名は湊山。後に玉ヶ関から玉椿。身長158cm、体重は重い時で90kgと現在では到底力士になどなれない小兵だが、周囲から「おまえと稽古すると気分悪くなる」と言われる程の稽古熱心だった。平蜘蛛と呼ばれる低い姿勢の仕切りから潜り込み、懐に食いつき左を差して頭をつける取り口で、そのしぶとさからついたあだ名が'''ダニ'''。当時は今と違い仕切り線がなく、両者が頭を付け合う姿勢で仕切っていたので潜るのは今よりかなり難しかったことは想像に難くない。[[明治36年]]5月新入幕。[[明治40年]]1月[[小結]]、[[明治42年]]6月関脇。小さい体格を利用した取り口で平幕上位から三役に定着、[[常陸山谷右エ門|常陸山]]にさえ玉椿は強いと言わしめ、対戦成績は常陸山5勝と玉椿は1度も勝てなかったが引分が3回。引分嫌いで水が入りそうになれば無理矢理にでも動くの常陸山でも勝負をつけ切れなかったことが苦戦を物語っている。[[西ノ海嘉治郎 (2代)|西ノ海]]には強かったが懐の深さを活かし荒技を振るう[[駒ヶ嶽國力|駒ヶ嶽]]には分が悪かった。[[明治44年]]6月には優勝旗。三役には最高5場所連続で在位し年2場所の時代に関脇4場所、小結7場所を勤めた。[[大正5年]]1月を最後に引退して年寄白玉を襲名、引退相撲では得意の[[弓取式|弓取]]を行なった。
 
明治44年1月の[[新橋倶楽部事件]]では関脇以下ではただ1人参加せず1見識を示したがこれが事件を起こした力士達から敵視され引退後は[[昭和3年]][[9月19日]]に亡くなるまでずっと平年寄のままだった。兄弟子の[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ヶ谷]]の雷親方が昭和2年に無くなったあと、自らの死去までのわずかな間ではあったが、弟子を引き取って[[白玉部屋]]の看板を掲げた。
 
 
常陸山より15cmも低い身長と童顔から写真では本当に子供のように見える。