「ディディエ・ピローニ」の版間の差分

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== プロフィール ==
[[ヴァル=ド=マルヌ県]]のヴィルクレネに生まれる。[[イタリア系]]フランス人。同じくレーサーの[[ジョゼ・ドレム]]は異母兄。裕福な家庭に育ち、学生時代よりは成績優秀かつスポーツ万能であった。実家の建設業を継ぐことを期待されたが、異母兄のレーサーの[[ジョゼ・ドレム]]の影響を受けてモータースポーツの世界に進んだ。フランスの石油企業[[エルフ・アキテーヌ|エルフ]]のバックアップを受けて[[フォーミュラ・ルノー]]に参戦し、フランス選手権、ヨーロッパ選手権を制覇する。
 
1977年には[[フォーミュラ2|ヨーロッパF2選手権]]に参戦(シリーズ3位)。また、スポット参戦した[[モナコグランプリ|モナコGP]]の前座[[フォーミュラ3|F3]]で優勝する。この活躍とエルフの推挙により、1978年に[[ティレル]]からF1デビューすることが決まった<ref>エルフはティレルの主要スポンサーを務めていた</ref>。
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[[ホッケンハイムリンク|ホッケンハイム]]で行われた第12戦ドイツGPでは、ピローニ自身が大事故に遭遇する。豪雨の中行われた土曜午前のフリー走行中、スタジアムセクションに向かう直線区間でルノーの[[アラン・プロスト]]の前を[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]の[[デレック・デイリー]]が走っていた。スロー走行中のデイリーは後方を確認し、プロストにレコードラインを譲った。水煙により前方視界が悪い中、その後方から接近してきたピローニはプロストの存在に気づかず、デイリーが自分にラインを譲ってくれたと勘違いした。デイリーをパスしたピローニの前に突然プロストのマシンがあらわれ、避ける間もなく右後輪に乗り上げて宙を舞い、プロストの上を飛び越えて地面に叩きつけられ、衝撃でマシン前部が大破した。事故の形態は、ゾルダーでのヴィルヌーヴとほぼ同様だった。
 
ピローニは一命を取り留めたものの、変形した車体に押しつぶされ、両脚に複雑骨折の重傷を負う。怪我の状態は酷く、マシンを止めて助けに行こうとしたプロストは「見ないほうがいい」と静止されたという。ピローニは意識を失わなかったため、いつ炎上するか分からない状態でマシンに閉じこめられる恐怖を味わった上、救急隊員の「足を切断しないと助け出せないかも知れない」といった緊迫した会話を全て聞くことになってしまった。ピローニは金曜日の予選1回目のタイムによりPPを獲得したが、決勝はDNS(不出走)となり、結果的にこの怪我でF1キャリアを絶たれることになった。
 
プロストは不可抗力とはいえ親友ピローニの悲劇に立ち会ってしまったことで、事故のリスクについて慎重に考えるようになった。のちに自身のレース観において「1982年が転機になった」と語っている<ref>『[[レーシングオン]] No.460 特集:ジルとディディエ』、イデア、2012年、69頁。</ref>。
 
== 注釈 ==