「ルートヴィヒ・アンドレーアス・フォン・ケーフェンヒュラー」の版間の差分

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== 概歴 ==
[[スペイン継承戦争]]に参加し、その[[1716年]]から[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]がその生涯にわたって保有していた[[竜騎兵]][[連隊]]の連隊長代理を務めた。これは当時の軍制の関係で、オイゲンが軍全体の指揮官に昇任しても、連隊長の地位はそのままにされたからである。そしてオイゲン指揮下で対[[オスマン帝国]]戦争([[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]])に従軍。[[ペーターヴァルダインの戦い]]、[[ベオグラード包囲戦 (1717年)|ベオグラード包囲]]に参加した。[[1733年]]には[[中将]]に昇進した。
 
[[ポーランド継承戦争]]では[[イタリア]]方面での戦闘に参加。[[パルマの戦い]]で[[クロード・フロリモン・ド・メルシー]]が戦死したあと一時的にイタリア方面の最高指揮官となるなど、オーストリアの主要な将軍の一人となっていた。[[1737年]]からのオスマン帝国との戦争にも彼は参加した。
[[スペイン継承戦争]]に参加し、その後[[1716年]]から[[プリンツ・オイゲン]]がその生涯にわたって保有していた[[竜騎兵]][[連隊]]の連隊長代理を務めた。これは当時の軍制の関係で、オイゲンが軍全体の指揮官に昇任しても、連隊長の地位はそのままにされたからである。そしてオイゲン指揮下で対[[オスマン帝国]]戦争に従軍。[[ペーターヴァルダインの戦い]]、[[ベオグラードの戦い]]に参加した。[[1733年]]には[[中将]]に昇進した。
 
彼は[[オーストリア継承戦争]]における活躍で歴史にその名を残した。戦争勃発時彼は[[ウィーン]]防衛指揮官であったが、[[フランス王国|フランス]]、[[バイエルン大公選帝侯領|バイエルン]]軍が[[ボヘミア|ベーメン]]に深入りしたところを見計らって反攻に出、両軍の後衛を駆逐して主力との連絡を絶つと[[リンツ]]を包囲して守備隊を降伏せしめ、さらにはバイエルン領に攻め込んで[[ミュンヘン]]をも占領した。
[[ポーランド継承戦争]]では[[イタリア]]方面での戦闘に参加。[[パルマの戦い]]で[[クロード・フロリモン・ド・メルシー]]が戦死したあと一時的にイタリア方面の最高指揮官となるなど、オーストリアの主要な将軍の一人となっていた。[[1737年]]からのオスマン帝国との戦争にも彼は参加した。
 
当時オーストリアは孤立して存亡の危機を迎えていたため[[マリア・テレジア]]は大いに喜び、彼に称賛の手紙と、自身と幼い息子[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]がともに描かれた肖像画を贈った。その後、彼は軍団の指揮官とされた[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]の後見役として、依然としてボヘミアとバイエルンの両域に居続けたフランス、バイエルン軍との戦闘に従事した。
彼は[[オーストリア継承戦争]]における活躍で歴史にその名を残した。戦争勃発時彼は[[ウィーン]]防衛指揮官であったが、[[フランス王国|フランス]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]軍が[[ボヘミア|ベーメン]]に深入りしたところを見計らって反攻に出、両軍の後衛を駆逐して主力との連絡を絶つと[[リンツ]]を包囲して守備隊を降伏せしめ、さらにはバイエルン領に攻め込んで[[ミュンヘン]]をも占領した。
 
[[1743年]]のうちには、最終的にフランス軍を駆逐して[[ライン川]]の方向へ進軍することができたが、翌1744年に彼は急死した。
当時オーストリアは孤立して存亡の危機を迎えていたため[[マリア・テレジア]]は大いに喜び、彼に称賛の手紙と、自身と幼い[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]がともに描かれた肖像画を贈った。その後、彼は軍団の指揮官とされた[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]の後見役として、依然としてボヘミアとバイエルンの両域に居続けたフランス、バイエルン軍との戦闘に従事した。
 
[[1743年]]のうちには、最終的にフランス軍を駆逐して[[ライン川]]の方向へ進軍することができたが、翌1744年に彼は急死した。
 
彼は後輩の[[レオポルト・フォン・ダウン]]にオーストリア軍の問題点とその対策についての考察ノートを残した。ダウンはその後のオーストリア軍の改革にそれを活かした。