「ワラキア蜂起」の版間の差分

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=== ワラキアを狙う列強国 ===
[[File:Nicolae Mavrocordat being caught at Curtea Veche by the Austrian Army, 1716.jpg|thumb|200px|オーストリア軍の捕虜となったニコラエ・マヴロコルダトス、1716年]]
[[オーストリア帝国|オーストリア]]との間に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]{{enlink|Austro-Turkish War of 1716–1718|a=on}}が発生してオーストリア軍が優位に事を進めると、ワラキアのボイエールたちはオーストリア帝国 領としてワラキア公国を自治国化させることを提言、ワラキア公[[ニコラエ・マヴロコルダトス]]{{enlink|Nicholas Mavrocordatos|a=on}}はこれを鎮圧するために命令を下したが、そのために[[ルーマニア正教会]]大主教[[アンティム・イヴィレアヌ]]{{enlink|Anthim the Iberian|a=on}}らが殺害された。しかし結局、ボイエール側が勝利を収め、さらにオーストリア軍がワラキアへ進撃した。このため、1718年に結ばれた[[パッサロヴィッツ条約]]でオーストリアはセルビア、ワラキア公国の一部である[[オルテニア]]などを手に入れた。そしてオーストリアがオルテニアを支配している間、様々な改革が行われた。これは後にワラキアがオスマン帝国に返還された際に諸改革が行われることにつながるが、オスマン帝国の意に反する改革は阻止された<ref name="otetea177267-69">[[#オツェテァ(ルーマニア1)| オツェテァ1 (1977)、pp.267-269]]</ref>。
 
1739年、[[ロシア帝国|ロシア]]、オーストリア対オスマン帝国の戦いが発生([[露土戦争 (1735年-1739年)|露土戦争]]{{enlink|Russo-Austrian-Turkish War (1735–1739)|a=on}})するとロシア軍はモルダヴィアへの侵攻に成功したが、ワラキアを奪取しようとしたオーストリア軍は進撃に失敗、オルテニアは放棄された。結局、1739年に結ばれた[[ベオグラード条約]]{{enlink|Treaty of Belgrade|a=on}}でオルテニアはワラキアへ再び併合された<ref name="otetea177269">[[#オツェテァ(ルーマニア1)| オツェテァ1 (1977)、p.269]]</ref>。
 
またさらに、不凍港を求め南下政策を採用していたロシアの[[エカチェリーナ2世]]はオスマン帝国との戦いを続けていたが、[[露土戦争 (1768年)]]で勝利したロシアは[[1774年]]に結ばれた[[キュチュク・カイナルジ条約]]で[[黒海]]北方を得た上でオスマン帝国内のキリスト教徒らを保護する権利も得た。そしてワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールらもこの条約締結の際に参加していたが、彼らはロシア、[[プロイセン]]、オーストリアの保障の下でワラキア、モルダヴィアの自治国化を求めた<ref name="kido7788"/><ref name="otetea177272">[[#オツェテァ(ルーマニア1)| オツェテァ1 (1977)、p.272]]</ref><ref>[[#ウッドハウス(近代ギリシャ史)|ウッドハウス(1997)、pp.156-157]]</ref>。
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