「ヘンリー・フィッツロイ (初代グラフトン公)」の版間の差分

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'''初代グラフトン公ヘンリー・フィッツロイ'''(Henry FitzRoy, 1st Duke of Grafton, [[ガーター勲章|KG]], [[1663年]][[9月28日]] - [[1690年]][[10月9日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族・軍人。イングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と愛人[[バーバラ・パーマー]]との間に生まれた[[庶子]]。初代[[グラフトン公]]でフィッツロイ家(グラフトン系)の祖。[[クリーヴランド公爵|クリーヴランド公]][[チャールズ・フィッツロイ (第2代クリーヴランド公爵)|チャールズ・フィッツロイ]]は同母兄、[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公]][[ジョージ・フィッツロイ (初代ノーサンバランド公)|ジョージ・フィッツロイ]]は同母弟に当たる。
 
チャールズ2世からは厚遇され[[1672年]]にユーストン伯、[[1675年]]にグラフトン公と叙爵され、[[1672年]]にチャールズ2世の側近のアーリントン伯[[ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯)|ヘンリー・ベネット]]の1人娘[[イザベラ・フィッツロイ (グラフトン公爵夫人)|イザベラ]]と結婚、[[1680年]]にガーター勲章を受勲、翌[[1681年]]に[[グレナディアガーズ|近衛歩兵第1連隊]]隊長、[[1682年]]に[[海軍中将 (連合王国)|海軍中将]]に就任した。[[1685年]]に父とアーリントンが死去、イザベラがアーリントン伯位を継承することでグラフトン公家は爵位と領地を増加させた。
 
同年に叔父の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の戴冠式では[[大司馬 (イングランド)|大司馬]]として出席、直後に起こった異母兄のモンマス公[[ジェームズ・スコット (モンマス公)|ジェームズ・スコット]]の[[モンマスの反乱|反乱]]では[[サマセット]]から反乱軍を攻撃した。以後は[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]](後の[[マールバラ公]])と行動を共にするようになり、[[1688年]]の[[名誉革命]]ではチャーチルと共にジェームズ2世の軍から脱走して[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]に寝返った。1690年の[[ウィリアマイト戦争]]でチャーチルの[[アイルランド王国|アイルランド]]南部の遠征に同行、[[コーク (アイルランド)|コーク]]包囲中に致命傷を受けて亡くなった。イザベラとの間の1人息子[[チャールズ・フィッツロイ (第2代グラフトン公)|チャールズ]]がグラフトン公位を継承、後にアーリントン伯位も相続した。