「ペトロヴァラディン」の版間の差分

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'''ペトロヴァラディン'''([[セルビア語]]:{{lang|sr|Петроварадин / ''Petrovaradin''}}、[[ハンガリー語]]:{{lang|hu|Pétervárad}}、[[ドイツ語]]:{{lang|de|Peterwaradein}})は、[[セルビア]]、[[ヴォイヴォディナ自治州]]の州都である[[ノヴィ・サド|ノヴィ・サド市]]の一地区である。[[ペトロヴァラディン要塞]]を取り巻くように、[[ドナウ川]]の右岸に位置しており、ドナウ左岸に広がるノヴィ・サド市街地の主要部とは橋で結ばれている。
 
== 呼称 ==
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[[ローマ帝国]]がケルト人の部族・[[スコルディスキ]]を征服したあと、この地にクスム(Cusum)という要塞を築いた。この要塞の場所に後に[[ペトロヴァラディン要塞]]([[:en:Petrovaradin Fortress|Petrovaradin Fortress]])が築かれた。町の名前は、[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]が、[[ペトロ|聖ペトル]]にちなんでペトリコン({{lang|el|Πετρικον /''Petrikòn''}})と名付けたことに由来している。
 
1237年の文献で、町ははじめてペトロヴァラディン(ハンガリー語ではペーテルヴァーラド Pétervárad)の名で記されている。ペトロヴァラディンはハンガリー統治時代はペーテルヴァーラドの名で、[[オスマン帝国]]統治下ではヴァラディン(Varadin)の名で、[[ハプスブルク家]]統治下ではペーテルターヴァダイン(Peterwardein)の名で呼ばれてきた。
 
現在、セルビア語での呼称はペトロヴァラディン({{lang|sr|Петроварадин / ''Petrovaradin''}})、ハンガリー語での呼称はペーテルヴァーラド({{lang|hu|Pétervárad}})となっている。
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その後12世紀には[[ハンガリー王国]]、1526年に[[オスマン帝国]]、1687年に[[ハプスブルク君主国]]の支配下となる。オスマン帝国統治下では、ペトロヴァラディンには200世帯が住んでおり、3つの[[モスク]]があった。町にはキリスト教徒地区もあり、[[セルビア人]]が35世帯住んでいた。
 
ペトロヴァラディンは、[[1716年]][[8月5日]]、[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|サヴォイ公プリンツ・オイゲン]]がオスマン帝国の軍を打ち破った[[ペーターヴァルダインの戦い]]の主戦場となった。オイゲンは翌[[1717年]]にオスマン帝国を[[ベオグラード]]でも打ち破り([[ベオグラード包囲戦 (1717年)|ベオグラード包囲戦]])、オスマン帝国は[[ポジャレヴァツ]]で和平を求めて交渉の席についた。
 
ハプスブルク家統治下では、ペトロヴァラディンは[[軍政国境地帯]]の一部に組み込まれた。1848年から1849年にかけて、町は新設された自治州・[[セルビア・ヴォイヴォディナ]]の一部となったが、1849年には再び軍政国境地帯の一部へと戻された。1881年に軍政国境地帯が廃止されて以降は、町は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の自治領邦である[[クロアチア=スラヴォニア王国]]の一部となった。