「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の版間の差分

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[[画像:Lordashley.jpg|thumb|シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー]]
'''初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー'''(Anthony Ashley-Cooper, 1st Earl of Shaftesbury, [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[1621年]][[7月22日]] - [[1683年]][[1月21日]])は[[17世紀]]の[[共和政イングランド共和国|共和政]]・[[護国卿政イングランド|護国卿政]]及び[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]治下の[[イングランド王国|イングランド]]の[[政治家]]。後にイギリス二大政党のひとつとなる「[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]」の先駆的存在である。
 
[[ジョン・ロック]]の[[パトロン]]でもあり、チャールズ2世のもと一時は[[#"Cabal"|"CABAL"]]の一員として権力を握るも、強い反カトリックの姿勢を示したため次第にチャールズ2世との間に距離ができ、ついには武装蜂起を計画して亡命をよぎなくされた。
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アシュリーが生きた[[17世紀]]中頃から後半のイングランドには3度、政治危機があったといわれる。[[短期議会]]に始まる[[清教徒革命]]([[1641年]])、[[王位排除法案]]が提出され議会が紛糾した[[1679年]]、そして[[名誉革命]]の起きた[[1688年]]であるが、アシュリーは[[1679年]]のいわゆる[[カトリック陰謀事件]]の混乱とそれに伴う排除法危機において、主導的役割をはたした。彼の主張は、後にホイッグとよばれる政治思想的潮流を形成することになる。
 
17世紀のイングランドは全体的にはいまだ農村社会で、いわゆる産業資本はほとんど見られなかった。移民の流入に加えて人口の自然増加が重なり、食糧の需要増大に生産が追いつかずインフレが起こっていた。こうした社会の不安定化は、オランダから伝わった改良農法によって、イングランド東南部から次第に緩和されていった。

しかし一方で、オランダから伝わったのは農法だけではなかった。同様にもたらされた[[改革長老教会]]などの[[カルヴァン主義]]は、[[イングランド国教会]]を間に挟んで、[[カトリック教会|カトリック]]への強い敵意を醸成しつつあった。カルヴァン主義など非国教徒プロテスタントとカトリックの板挟み状態となり、国教会のみによるイングランド支配は次第に難しくなってきていた。アシュリーは、そうした非国教徒[[プロテスタント]]の1人であった。
 
== 人物像 ==
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== 生涯 ==
=== 幼年期 ===
1621年7月22日の午後、イングランド南部[[ドーセット州|ドーセット]]のアシュリー=クーパーという[[準男爵]]の家に、1人の男児が誕生した。男の子は、母方の祖父のサー・アントニー・アシュリーの名をとってアントニーと名付けられた。母方の祖父アシュリー卿は歴史の古い名家のひとつであった。ピューリタンの家庭教師によって育てられた彼は、政治的にも思想的にもピューリタン、すなわち非国教会プロテスタントとして成長した。
 
ステュアート朝イングランドにおいて、アシュリー=クーパー家のように[[ジェントリ]]の地位と大きな土地を所有していた家の長男は、少なくとも[[庶民院|下院]]議員になることが政治社会における慣例となっていた。当時は議会招集のたびに選挙が行われたが、競争選挙(割当議席数以上の候補が立って選挙戦が行われる選挙)がまだ珍しい時代で、しかも有権者は総人口の5%に満たなかった<ref>投票権をもつための条件も、地方ごとにまちまちで統一されていなかった。[[救貧法|救貧税]]を納めていることが条件の州もあれば、市民権取得を要件にしていた都市もあった。概して都市選挙区のほうが州選挙区よりも有権者数が多く、州選挙区は地元の名望家の一存でほぼ決まり、競争選挙は都市選挙区で行われることが多かった。さらに、人的つながりや議席確保などの理由から、何のゆかりもない選挙区から立候補することも少なくなかった。こうした選挙事情については、18世紀の事例ではあるが後掲、青木、1997に詳しい。</ref>。有権者が100人を超える選挙区は稀で、したがってその土地の名望家の支持を得ることが当選のための条件だった。アシュリーはこの要件を相続と結婚で十分以上に満たしていた。
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父ジョン・クーパーは下院に議席を持っていたが、同時に無類のギャンブル好きで、莫大な借金を抱えていた。アントニー・アシュリーの両親はともに20代で世を去り、10歳のアシュリーは35,000ポンド超の借金返済を迫られた。アシュリーは祖父アントニー・アシュリーに引き取られ、地所を切り売りしてなんとか借金を完済した。[[1637年]]に[[オックスフォード大学]]エクセタ・カレッジに進み、ここで師ジョン・プリドーのカルヴァン主義を吸収した。
 
アシュリーの最初の結婚は[[1639年]]で、相手はアシュリーの初期の後援者となるコヴェントリー男爵[[トマス・コヴェントリー (初代コヴェントリー男爵)|トマス・コヴェントリー男爵]]の娘マーガレットであった。彼自身、生涯に3度結婚しているが、いずれ劣らぬ名家の息女であり、こうした姻戚関係によって名家とのコネクションを築くことができた。こうした人間関係はアシュリーを政界に進出させたのみならず、借金を返済し、資産を築くうえでもきわめて重要な意味を持った。
 
マーガレットと幸せな結婚生活を送ったが、2度の流産と1度の死産がおこり、[[1649年]]の4度目の妊娠で「突然ひきつけを起こして」還らぬ人となった。翌[[1650年]]の再婚相手はエクセター伯爵[[ディビッド・セシル (第3代エクセター伯)|エクディビッド・ター伯爵シル]]の娘フランシスで、この当時まだ17歳であった。フランシスは2年後、19歳で世を去るが、アシュリーとの間に2人の子が生まれ、このうち生き残った2人目の子が後の第2代シャフツベリ伯爵[[アントニー・アシュリー=クーパー (第2代シャフツベリ伯爵)|第2代シャフツベリ伯爵アントニー]]となる。

[[1655年]]に再婚した3人目の妻マーガレットはスペンサー男爵[[ウィリアム・スペンサー (第2代スペンサー男爵)|ウィリアム・スペンサー男爵]]の娘で、彼女は[[1693年]]まで生きた。これらの結婚相手はいずれも数千[[スターリング・ポンド|ポンド]]の持参金をアシュリーにもたらし、これが父の借金返済の一助になった。
 
=== イングランド内戦 ===
アシュリーがコヴェントリー男爵の後押しを受けて下院議員に初当選したのは[[1640年]]、[[短期議会]]においてであった。当時既に強力なコネクションを築いていたが、鋭く対立する[[円頂党|議会派]][[騎士党|党派]]のどちらにつくか態度を鮮明にしなかった。[[1642年]]に国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]と[[長期議会]]の対立が決定的になる、アシュリーはそれでもどちらにつくか決めかねた。[[イングランド内戦]]が始まるに及び彼は国王に随伴してロンドンを離れたが、後に彼は「見物についていっただけだ」と弁明している。

戦況が議会派有利になった[[1644年]]、国王軍は[[アイルランド]]の[[アイルランド・カトリック同盟|カトリック同盟]]と和睦を協議した。もとより熱心な派でもなかったアシュリーはこれに激しく反発した。この時、離反して議会派についた者が少なくなかったが、アシュリーもそんな中の1人であった。
 
議会軍に鞍替えしたといっても、昨日まで敵であったものを議会軍も易々とは信用しなかった。アシュリーはいわば「外様」として扱われ、これは王政復古まで続くことになった。内戦後半([[1646年]] - [[1650年]])の記録は散逸しておりアシュリーの足跡は辿りきれない。それ以外の行動や発言から[[長老派教会|長老派]]にもっとも近かったのではないかと考えられている。アシュリーは地方の[[治安判事]]に精励する一方、植民地交易に手を広げて資産拡大にも励んでいた。
 
=== 共和政・護国卿政時代 ===
ランプ議会は[[1652年]]、アシュリーを追加の議員として承認した。しかし彼が議会の中では長老派であったこと(これは当時保守派・非主流を意味した)、及び国王軍に一時加わっていたことなどからあまり厚遇されず、したがって発言力も大きくなかった。こうした穏健派議員達に目をつけたのが、亡命中のチャールズ(後の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]])である。チャールズは再三、アシュリーらに手紙で国王復帰の途を打診してきていたが、アシュリーはにべもなく断ったのだった。当時はそれが当然の反応であり、チャールズもこの時のことを根に持ったりはしなかった。
 
情勢が大きく動いたのは[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル]]の死後([[1658年]])である。クロムウェルの息子[[リチャード・クロムウェル]]は四分五裂の状態にあった国論をまとめきれず引退し、共和政を続けようとするランプ議会と国王復帰を願う勢力が短くも激しく対立した。アシュリーら「穏健派」はランプ議会を見限り、当時[[スコットランド王国|スコットランド]]方面軍司令官だった[[ジョージ・モンク (初代アルベマール公)|ジョージ・モンク]](後のアルベマール公)に働きかけて軍を動かした。
 
情勢が大きく動いたのは[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル]]の死後([[1658年]])である。クロムウェルの息子[[リチャード・クロムウェル]]は四分五裂の状態にあった国論をまとめきれず引退し、共和政を続けようとするランプ議会と国王復帰を願う勢力が、短くも激しく対立した。アシュリーら「穏健派」はランプ議会を見限り、当時[[スコットランド]]方面軍司令官だった[[ジョージ・モンク (初代アルベマール公)|ジョージ・モンク]](後のアルベマール公)に働きかけて軍を動かした。スコットランド軍が[[トゥイード川]]を渡ってイングランドに南進を始めたのが[[1660年]][[1月2日]]、モンク軍がロンドンを制圧したのが[[2月11日]]であった。ここにいたって議会は自主解散を決めた([[3月16日]])。これをみたチャールズは[[4月25日]][[ブレダ宣言]]を発し、イングランド側も[[5月8日]]これを受諾した。足掛け22年に及んだ[[清教徒革命|]](三王国戦争]]は、ここに幕を下ろした。
 
=== 騎士議会 ===
[[画像:WH 1st Earl of Clarendon.png|thumb|[[クラレンドン伯爵]][[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|クラレンドン伯爵エドワード・ハイド]]。[[大法官]]などの職にあり、王政復古直後の政権を担ったが、英蘭戦争敗北の責任をとらされて失脚した。アシュリーとは次第に疎遠になったが、[[ロンドン塔]]に送られそうになったのを救ったのもアシュリーであった]]
チャールズ2世の即位後召集された議会では保守派が圧倒的勝利をおさめ<ref>当時は召集のたびに選挙があった。選挙とはいっても、有権者数が100人を超える選挙区はまれで、地域の名望家の支持によって当落が決まったばかりでなく、そもそも競争選挙(割当議席数以上の候補者が立つこと)が圧倒的に少なかった。</ref>、国王・国教会支持の時代となった。この時の議会は王に従順だったため[[騎士議会]]とよばれている。アシュリーは王政復古の立役者として王の覚えがめでたくなり、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]のメンバーになったほか、国王を自宅に招いてパーティーをしたりもした。この時にはじめて、チャールズ2世の庶子であるモンマス公[[ジェームズ・スコット (モンマス公)|ジェームズ・スコット]]と対面した。
 
騎士議会が行ったのは、共和政・護国卿政時代の「政治犯」を処罰することであった。誰を処刑台に送るかで紛糾したが、アシュリーは対象をチャールズ1世の処刑に署名した者に限るべきだと主張した。結果的に彼は、護国卿政時代にアシュリーを白眼視していたランプ議会のアーサー・ヘイセルリグら幾人かの命を救った。
 
騎士議会を主導していたのは[[クラレンドン伯爵]][[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|クラレンエドワード・ハイン伯]]である。彼は[[クラレンドン法典]]とよばれる諸立法を制定し、カトリック及び非国教会プロテスタントをきびしく弾圧した。アシュリーはカトリックの取り締りには賛成する一方、非国教会プロテスタントをも非合法化することには反対した。この頃からクラレンドン伯とアシュリーの関係は冷え込んでいった。
 
[[ロンドン大火]]で知られる[[1666年]]、アシュリーは湯治のためオックスフォードを訪れた。そこで出会ったのが[[ジョン・ロック]]で、彼の思想にほれ込んだアシュリーは彼を私設秘書として手許に置いた。後にアシュリーが出版するパンフレットの多くは、ロックが関わっていたと考えられている。
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