「近藤長次郎」の版間の差分

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[[画像:Kondo Chojiro Grave.jpg|thumb|200px|近藤長次郎の墓]]
その後長次郎は、薩摩藩家老の[[小松帯刀]]が費用を出し英商人[[トーマス・ブレーク・グラバー]]が船の手配をしてイギリスへ留学する予定であったが<ref>『坂本龍馬関連文書 第二』p.328</ref>、亀山社中の社中盟約書に違反したとして仲間たちより追及を受けたのち責任をとって[[小曽根乾堂|小曽根]]邸で切腹した。なお、このとき切腹を命じたのは龍馬自身であったという説が一部にあるが、当時龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在であり、長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高い。享年29。
 
龍馬の妻である[[楢崎龍|お龍]]は後に回顧録『千里駒後日譚』(せんりのこまごじつのはなし)の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。