「フリードリヒ・マックス・ミュラー」の版間の差分

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1848年、ミュラーは駐英大使クリスティアン・C・J・フォン・ブンゼンによってイギリスに招かれる。ブンゼンは[[イギリス東インド会社]]の援助によって『リグ・ヴェーダ』の校訂・翻訳を行う人物として、ミュラーに白羽の矢を立てたのである。翌1849年『リグ・ヴェーダ・サンヒター』全6巻の刊行が始まり(1873年に完結)、1850年に[[オックスフォード大学]][[教授]]。1854年には現代諸語のタイラー講座教授、1858年、[[オール・ソウルズ・カレッジ (オックスフォード大学)|オール・ソールズ・カッレジ]]のフェロー(研究員)となる。1860年、サンスクリットのボーデン講座教授の地位を[[モニァー・ウィリアムズ]]と争って敗れるが、1868年にはミュラーのために比較文献学の講座が開設された。
 
ミュラーは1875年に退官するが、1879年には『東方聖典叢|東方聖書(東方聖典叢書)』全50巻の刊行がスタートし、1894年に完結する。その6年後の1900年、イギリスに渡って以来オックスフォードに住み続けたミュラーは同地で死去した。
 
ミュラーはまた、[[ルドヴィコ・ザメンホフ]]や[[レフ・トルストイ]]と親交があった[[:eo:Vladimir Majnov|ウラジーミル・マイノフ]](1871年–1942年?)の影響を受けた[[エスペランティスト]]の一人だった。