「ムハンマド・ビン・トゥグルク」の版間の差分
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初代君主・[[ギャースッディーン・トゥグルク]]の子。父と共に多くの戦場に参加し、有能な軍人として名を馳せた。父が1325年に不慮の死を遂げると、後継者として即位する。だが、英主と知られた父の死は敵国を蠢動させ、[[1327年]]には[[チャガタイ・ハン国]]軍が来襲する。この来襲では[[デリー]]北部にまで侵食されるほどの大事となったが、[[ジェーラムの戦い]]でチャガタイ・ハン国を撃破し、さらにこれに呼応した周辺諸国をも滅ぼした上、現在の[[アフガニスタン]]や[[カズニ]]地方まで勢力を拡大するという快挙を行なった。
ところがその後、一族や重臣の諫言を無視して[[デカン高原]]の西にあるデーヴァギ
このように、数々の内政での失敗と、大成功はしたが大規模な軍事行動による軍費の増大は、財政難と人心の離反を招き、新たな支配地での領主らの反乱を招いた。[[1336年]]にはサンガマ
ムハンマドはこれらの反乱を鎮圧するために遠征を繰り返したが、これがかえってさらなる財政難を招く。また、窮余の一策として農地改革を行なったが、これも飢饉が起こり、かえって生産力低下を招くという体たらくとなった。
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