「東山道」の版間の差分
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飛騨・出羽は行政区画で東山道に区分されていたが、国府には幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の[[岐阜市]]辺りから支路が分岐していた。また出羽国へは、小路とされた[[北陸道]]を[[日本海]]沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て[[秋田城]]まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。
[[奈良時代]]当初は、東山道の枝道として[[東山道武蔵路]]が設けられ、[[上野国]]新田より曲がって[[武蔵国]][[府中市 (東京都)|国府]]に至り、戻って[[下野国]][[足利市|足利]]へ進むコース(またはこの逆)が東山道の旅程であった。この為、武蔵国は沿岸国([[東京湾]]岸の一角)であるにも拘らず、当初は東海道ではなく東山道に入れられていた。しかし、人馬の浪費を是正するため、武蔵国を東海道に転属させることにより短絡した。元々の東海道は、相模国から海路で上総国・安房国渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていた。その後海路に代わり相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれた事により、[[宝亀]]2年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[771年]][[12月7日]])武蔵国は東海道に入れ替わった。なお、[[甲斐国]](現 [[山梨県]])は[[駿河国]]、[[伊豆国]]とともに東海道に属しており、旅程も東海道に組み込まれていた。
東山道には、30里(約
[[平安時代]]には、[[平安京]]([[京都]])との間の[[運脚]](運搬人夫)の日数([[延喜式]]による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り
* 東山道:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日)
* 支路:飛騨国府(14日/7日)
* 北陸道:出羽国府(47日/24日)
[[徳川幕府]]が[[江戸]]を本拠地にして[[江戸時代]]になると、幹線道路としての東山道は、[[中山道]]・<!--[[甲州街道]]、-->[[日光例幣使街道]]・[[奥州街道]]として整備された。中山道は[[高崎宿|高崎]]から江戸へ南下するルートになり、高崎以東が日光例幣使街道に、[[宇都宮宿|宇都宮]]以北が奥州街道となった<!--江戸⇔宇都宮は日光街道-->。中山道は、江戸から[[京都]]までは中山道経由だと555kmになるが、「[[東海道]]のバイパス」として多くの旅客に利用された。
=== 現代 ===
しかし、[[明治政府]]が[[東京都|東京]]を本拠地にして「東京時代」が到来した後は、従来の「[[近畿地方|近畿]]⇔[[北関東]]・[[陸奥国|東北太平洋側]]」の需要は「[[南関東]]⇔北関東・東北太平洋側」へと移った。
東山道の区間内に限って見ると、東山道の各沿線短区間での交通需要が見込まれるほか、東北地方南東部([[宮城県]]・[[福島県]])および関東地方北部([[茨城県]]・[[栃木県]]・[[群馬県]])と[[長野県]]間の中距離区間にも地方間としては大きな需要が見込まれており(毎日約32,000人=東京⇔水戸
;(参考)東山道ルートでの、京都⇔多賀城の概算距離
:[[京都市|京都]] -(22km)- [[草津市|草津 (滋賀県)]]<!--太平洋岸ルートと内陸ルートの分岐点--> -(57km)- [[長浜市|長浜]] -(12km)- '''[[不破関]]'''<!--岐阜県と滋賀県の境--> -(36km)- [[岐阜市|岐阜]] -(26km)- [[美濃加茂市|美濃加茂]] -(56km)- [[中津川市|中津川]] -(100km)- [[塩尻市|塩尻]] -(20km)- [[諏訪大社]] -(55km)- [[小諸市|小諸]] -(22km)- '''[[碓氷峠]]''' -(41km)- [[高崎市|高崎]] -(112km)- [[宇都宮市|宇都宮]] -(75km)- '''[[白河関]]'''<!--栃木県と福島県中通りの境--> -(152km)- [[岩沼市|岩沼]]<!--太平洋岸ルートと内陸ルートの合流点--> -(25km)- [[多賀城市|多賀城]]
== 関連項目 ==
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