「組手 (空手)」の版間の差分

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[[1867年]]、[[首里]]崎山にあった[[琉球国王]]の別邸・[[御茶屋御殿]]で開催された冊封使節のための祝賀会において、新垣通事親雲上([[新垣世璋]])と真栄理筑登之親雲上の二人が「交手」を演武したとの記録があり、これは組手のことを指していると考えられているが、名称のみで内容は不明である。
 
今日現存する最古の組手書は、本部朝基が[[1926年]](大正15年)に著した『沖縄拳法唐手術組手編』で、それ以前のものは現存していない。この書で発表された12本の約束組手(朝基十二本組手)は、現代の競技試合から取り除かれた急所攻撃等が多く含まれており、古来の組手の様子をうかがい知ることができる。ほかに、[[花城長茂]]が学校体育用に{{和暦|[[1905}}年]](明治38年)に作成した約束組手の一部を、『空手道大観』(昭和13年)の掲載写真から解読する試みが近年行われている<ref>高宮城繁・新里勝彦・仲本政博編著『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、671頁参照。</ref>。
 
沖縄時代の組手が判然としないのは、伝書が存在していないというだけなく、当時の空手が型稽古中心で、組手がそもそも練習において大きな比重を占めていなかったためでもある。型稽古の他には、巻藁やチーシー、サーシーといった道具を用いた鍛錬稽古と、あとはわずかばかりの型分解のようなものがあるだけで、型で覚えた技を実際に試したい者は、[[那覇]]の[[辻 (那覇市)|辻町]](遊郭街)等で行われていた「[[フルコンタクト空手#沖縄時代|掛け試し]]」と呼ばれる一種の野試合を行う必要があった。しかし、本部朝基などを例外とすれば、掛け試しによる実戦の修業も一般的ではなかったと考えられている。
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こうした不満や批判を背景として、当時の若者達がそれぞれ独自に約束組手や組手試合を考案していったが、これらが今日の空手の組手の原型である。[[大塚博紀]]([[和道流]]開祖)、小西康裕([[神道自然流]])、[[山口剛玄]]([[剛柔流]])、[[澤山宗海]]([[日本拳法]]開祖、[[摩文仁賢和]]門下)達である。
 
本土で最初に約束組手を作ったのは[[船越義珍]]高弟の大塚博紀であったが、大塚は当初演武会のために組手を考案した。戦後のインタビューで、大塚は当時演武会で見せるものが何もなくて困ったので、柔術から居捕りや短刀捕り、太刀捕りなどを取り入れて作ったと、創作秘話を語っている<ref>「空手道を語る/大塚博紀(その1)」『月刊武道集団』No.12・1、武道出版研究所、1978年、13頁参照。</ref>。大塚は、{{和暦|[[1929}}年]](昭和4年)頃からは、組手試合も試験的に始めた<ref>上掲14頁。</ref>。
 
小西康裕も柔道界からの批判を受けて、「私は[[竹内流]]のネ、やり方だとか[[柳生心眼流]]や[[甲賀流]]のやり方だとかを取り入れて、だいたいデッチあげた形」<ref name="r2" />で約束組手を作り上げたところ、講道館の重鎮達から「それなら良い」と評価されたという。
 
一方関西でも、昭和に入ると[[立命館大学]]の山口剛玄([[宮城長順]]門下)が独自に組手を創作していた。山口は{{和暦|[[1929}}年]](昭和4年)頃に「型中心の空手に満足しなかった私は、更に一歩進んだ考え方から、実戦組手を創案して現在のような交歓稽古ができる基礎を作りました」<ref>山口剛玄「空手界の設計図」『月刊空手道』創刊号、空手時報社、1956年、40頁。</ref>と、戦後に雑誌に寄せた論考の中で語っている。
 
また、[[関西大学]]柔道部に在籍していた澤山宗海(本名・勝)は、{{和暦|[[1929}}年]](昭和4年)に摩文仁賢和と[[宮城長順]](剛柔流開祖)を招聘して、関西大学唐手研究会を設立したが、次第に型のみの稽古に物足りなさを感じて、{{和暦|[[1932}}年]](昭和7年)、「大日本拳法」という防具組手を主体とする空手とは別の武道を創設した<ref>森良之祐『絵説・日本拳法』東京書店、1998年、48、49頁参照。</ref>。
 
しかし、こうした態度は沖縄から来た空手家の指導を疑うようなもので、黙認される場合もあったが大問題に発展した事例も存在した。特に[[東京大学|東京帝国大学]]の[[坊秀男]]、三木二三郎らが始めた防具組手は、船越の逆鱗に触れ船越の東大師範辞任問題にまで発展した。また、同じ頃、船越門下の大竹一蔵、坂井賛男、アマチュアボクシングの洪胤植らが九段下に作った「大日本拳法研究会」が、空手と拳闘([[ボクシング]])の共同研究と称して防具空手を始めたが、これにも船越は激怒して坂井を破門にしている<ref>大竹一蔵「船越先生と私」『空手道』創造、1977年、144、145頁参照。</ref>。こうした反対に遭い、空手の組手試合の正式な確立は戦後まで持ち越すことになった。
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==== 本土 ====
[[image:Karate WC Tampere 2006-2.jpg|thumb|300px|伝統派空手の組手試合]]
戦後、本土では[[全日本空手道連盟錬武会]]の前身・[[韓武舘]]が独自に防具組手を考案して、{{和暦|[[1946}}年]](昭和21年)頃から、組手試合を始めた。{{和暦|[[1954}}年]](昭和29年)には、第1回[[全国防具付空手道選手権大会|全国空手道選手権大会]]を開催して、[[防具付き空手|防具付き]]ルールで大規模な試合を実施している。
 
また、{{和暦|[[1950}}年]](昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟により、{{和暦|[[1957}}年]](昭和32年)に全日本学生空手道連盟主催で伝統派(寸止め)ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催された。
 
ほかに、[[山田辰雄 (空手家)|山田辰雄]]も、昭和20年代から独自にグローブ空手を考案して、{{和暦|[[1962}}年]](昭和37年)には第1回空手競技会を開催して、後の[[フルコンタクト空手]]の先駆けとなった。
 
{{和暦|[[1964}}年]](昭和39年)、[[全日本空手道連盟]](全空連)が結成され、{{和暦|[[1969}}年]](昭和44年)、第1回[[全日本空手道選手権大会]]が開催された。翌{{和暦|[[1970}}年]](昭和45年)には、第1回世界空手道選手権大会が東京([[日本武道館]])、大阪([[大阪府立体育館]])で二度に分けて開催された。これに先立つ{{和暦|[[1968}}年]](昭和43年)には、[[メキシコオリンピック]]にて、メキシコオリンピック招待空手道選手権大会が開催された。
 
==== 沖縄 ====
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組手試合の開催も本土より出遅れていたが、1960年代から各流派・団体が個別に開催する形で徐々に始まった。他にも[[琉球大学]]空手道部や県下の各高校で、独自に組手試合が行われてるようになった。
 
[[国民体育大会|国体]]への参加は、[[全日本空手道連盟]]への加盟問題や本土流派が中心となって制定したルール(指定形)への反発から、沖縄県体育協会(県体協)に加盟する全沖縄空手道連盟(会長・八木明徳)が反対したため見送られていた。しかし、沖縄での国体開催が近づく中で、ついに県体協は全沖縄空手道連盟を脱会処分にし、代わりに国体参加を容認する新設の沖縄県空手道連盟(会長・[[長嶺将真]])を加盟させた<ref>高宮城繁・新里勝彦・仲本政博編著『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、134頁参照。</ref>。翌{{和暦|[[1982}}年]](昭和57年)には、沖縄空手道連盟主催の第一回空手道選手権大会が島根国体の予選も兼ねて開催された。その後は、{{和暦|[[1987}}年]](昭和62年)に沖縄県で開催される[[第42回国民体育大会|海邦国体]]へ向けて取り組みが強化され、競技組手の普及とレベルアップが図られた。
 
しかし、この国体参加問題は、沖縄空手各流派・団体の間に深刻な亀裂をもたらした。全沖縄空手道連盟、沖縄県空手道連盟のほかに、その後いくつかの組織が設立され、ますます混迷を深めた。こうした状況の中で、沖縄独自の組手をどうするかという問題は置き去りにされたまま残り、なし崩し的に本土の競技空手に迎合したことについては批判も存在する。