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拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の[[朝日新聞|朝日]]・[[読売新聞|読売]]・[[毎日新聞|毎日]]の各新聞でも[[阿南惟幾]]ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった<ref>1946年9月16日[[朝日新聞]]等</ref>。
 
なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説<ref>『日本の100人 東条英機』</ref>や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説<ref name="Butow14">[[ロバート・ビュート|ロバート・J・ビュートー]]『東條英機(下)』第14章 名誉の失われし時(215-245頁)時事通信社 1961年</ref><!--p.235-->もある。
 
東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の[[古賀秀正]]少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。
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; 米軍MPによる銃撃説
なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長[[額田坦]]は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、イキナリ拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている<ref name="nukata"/><!--p.203--><!--要出典追加:これが本当であればもっと他にも出典が見つかるはず。出典が一つしかないならその旨を明記すべき-->。
歴史家[[ロバート・ビュート]]も[[保阪正康]]も銃撃説を明確に否定している<ref name="Butow14"/><!--p.239--><ref>『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫版590頁</ref>。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている([[東條英機の遺言]]参照)。
 
; 戦陣訓