「アルタン・ハーン」の版間の差分

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[[1519年]]に父が死去すると、その後を継いだ。この頃は、内モンゴルのトメト部を治める小領主に過ぎなかった。[[1524年]]に祖父が死去すると、その後を継いだ[[ボディ・アラグ・ハーン]]の宗主権を認め、その治世に協力した。
 
[[1538年]]、内乱鎮圧の功績により、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]を形容する際に使われる「ソート」( suu tu ; 天恵をもつ)の称号を与えられた。[[1542年]]には[[明]]遠征での功績により、「トゥシェート・セチェン・ハーン」(補佐する賢明なハーン)の称号を与えられ、正統ハーンのボディ・アラグ・ハーンを補佐する次席ハーンとなる。これにより、内モンゴル高原の西半分に遊牧するモンゴル右翼3万戸の最有力指導者となった。[[1550年]]にも明に侵攻し、[[北京市|北京]]にまで迫った([[庚戌の変]])
 
=== 即位 ===